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ジジェクおじさんがプラトーノフについて言うこと
同年代の翻訳者、勝田悠紀さんにお知らせいただいて(ツイッターが役に立つことも稀にある)、このたび翻訳が出版されたスラヴォイ・ジジェクの『あえて左翼と名乗ろう』(勝田さん訳、青土社、2022。原著2020)に『チェヴェングール』論が収録されていることを知りました。3章の「ノマド的プロレタリアート」がそれに当たります。せっかくなので、ジジェクがプラトーノフについて言っていることをおさらいしておきましょう。
言い訳ですが、ぼくは哲学的なトレーニングを受けておらず、ジジェクの言ってることの半分くらいはよく分かっていないので、変なこと言っていてもご勘弁ください。あと、上述の3章しかまだ読んでいません……。
既訳書での言及
『チェヴェングール』あとがきを書くに当たって、邦訳のあるジジェクの著作を基本的にすべて総ざらいするという(あるいは不毛かもしれない)作業をしたのですが、その結果、以下の書籍に『チェヴェングール』に関する記述が含まれていることが分かりました。
『身体なき器官』(長原豊訳、河出書房新社、2004。原著2003)
『ロベスピエール/毛沢東』(長原豊・松本潤一郎訳、河出書房新社、2008):日本独自編集
『大義を忘れるな』(中山徹・鈴木英明訳、青土社、2010。原著2007)
→上記3作では、ジェイムソン『時間の種子』に依拠するほぼ同一の文章が使いまわされています。『真昼の盗人のように』(中山徹訳、青土社、2019。原著2018)
→すこしだけ触れられています。
いちばんまとまった記述があったのが以下の本です。
『終焉の時代に生きる』(山本耕一訳、国文社、2012。原著2010)
この本では、プラトーノフが描くのは「グノーシス的唯物論のユートピア」であることが主張され、プラトーノフのユートピアと現実になった共産主義とがどのような関係性にあるのかが検討されます(それらがすべて「〜?」という問いの形で残されていることはプラトーノフの本質を衝いていると思います)。
これをさらに展開させる形で、ジジェクはtech-gnosisという用語を持ち出しつつ『Hegel in a Wired Brain』(2021、未訳)や「ポスト人類時代のセクシュアリティ」という論攷(要約した記述が『事件!』鈴木晶訳、河出書房新社、2015 で読める)を書くことになりますが、このtech-gnosisとしてのユートピアみたいなお話(テクノロジーによって新しい人間・社会を作るぞ的なお話)はたぶん『チェヴェングール』よりも、短篇「アンチセクスス」(拙訳『不死』所収)など初期の短篇のほうが例としては適当でしょう。
『あえて左翼と名乗ろう』での記述
上記の論はおよそ、ロシアのポストモダン哲学者ポドロガやフレドリック・ジェイムソンの『時間の種子』での議論に依拠したものだろうと想像できます(両者の論文でユートピアも精神分析も機械(技術)論もカヴァーできるからです)が、ジジェクのプラトーノフに関する記述は、近年すこし変化しているようです。そのきっかけになったのがマリア・チェホナツキフの以下の博士論文との出会いだったと思われます。
Chehonadskih, Maria [Чехонадских, Мария]. Soviet epistemologies and the materialist ontology of poor life : Andrei Platonov, Alexander Bogdanov and Lev Vygotsky [PhD thesis, Kingston University], 2017. <https://eprints.kingston.ac.uk/id/eprint/38850/>
近年のプラトーノフに関するジジェクの記述の註には必ずこの文献が示されており、ぼくじしんがジジェクの本の註でこの論文の存在を知りました。『あえて左翼と名乗ろう』の記述も全面的にチェホナツキフの論文に依拠していることが註に記載されています。
『チェヴェングール』という作品の位置付けに注目すると、ここまで見てきた論では、『チェヴェングール』をボグダーノフらの影響が残る前期プラトーノフ(1920年代まで)に含み入れようとしているのに対し、この文章では後期(1930年代以降)の短篇「ジャン」との関連で『チェヴェングール』を捉えており、個人的にも分かりみが深いところです。より正確には、解説で古川哲さんが述べるように、『チェヴェングール』は前期と後期とを橋渡しするような作品であると言ったほうがよいでしょう。
本書で注目されるのは、「その他の人びと(прочие)」と呼ばれる『チェヴェングール』の登場人物群(登場“階級”?)で、論の中では『チェヴェングール』の第3部(特に411頁付近)が引用されています。プラトーノフはプロレタリア未満の「無」「その他」と呼ばれるしかない存在たちの出現を描くことで、「〈他者〉をプロレタリアートへと包摂することの問題を提起」する。そしてそれは現代における難民・移民の問題にも深く関わるのではないか、というのがジジェクの主張です。
この章の中でジジェクが言う本筋外のこと——例えば、ベケットがあくまで国家権力を既成のものとして描くのに対して、国家もいったんゼロになった革命後の状況において共産主義権力がどのように「その他」たちを動員して国家を組織していくかを描くのがプラトーノフだ(そこにおいては国家さえオプションなのですね)という対比だったり、プラトーノフが描く「貧しい生活」を何か現代社会のオルタナティヴを提示するものとして、あるいは「その他」たちを何か“マルチチュード”のようなものとして称揚することはやめた方がいい(おそらくM・ウォークやJ・ディーンらの論が念頭にあるのでしょう)ということなど——は、ぼくとしては基本的には同意できるものです。特に後者は傾聴に値するもので、というのもあとがきで述べたように、プラトーノフはこうするのが正解だ、こうすべきだということを言う作家ではないからです。プラトーノフが凡百のユートピア/ディストピア作家から抜きん出ている点はここにあって、つまり読者をも問いの中に巻き込みつつ、「これでいいと思うか?」ということ、しかもこの問いの場合、「こうすると確実に失敗するがどうする?」ということを執拗に問いかけつづけるところにプラトーノフの凄みがあるとぼくは思います。
以前のジジェクによる『チェヴェングール』論は、正直きみの言いたいことの補強に使ってるだけでしょうという感じもあるのですが、『あえて左翼と名乗ろう』の場合は3章そのものが一つの『チェヴェングール』論として読め、しかも現代の難民問題などへの接続性を示しつつ、いまだ解かれていない問題の渦中に『チェヴェングール』を位置づけるものとして結構興味ぶかいものでした。『チェヴェングール』を自力で読み解いた後に——後がいいでしょう、最初に読み方を限定することはあまり良くないですから——、ジジェク(チェホナツキフ)の言っていることの妥当性を判断しつつもう一度読み返してみることで、読書にいちだんと深みが出るかなと思います。
このすばらしいタイミングで翻訳を出してくださった訳者の勝田さんや青土社さんに感謝します。
おまけ
ちなみに、『チェヴェングール』の帯文に引用した「20世紀には、重要な作家が3人いた……」という文章は、英『ガーディアン』紙ウェブサイト上の企画「Guardian webchat」での発言(2014)や、2013年にロシアで行われた講演のメモが基になっています。
そしてこれはニューヨーク公共図書館での対談(2015)にて、「アンドレイ・プラトーノフ、もっとも偉大な20世紀ロシア/ソヴィエト作家」と発言するジジェクおじさんです。(1:20:00くらいからの質疑応答にて。公式サイトの文字起こし)
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