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言葉は力である。

作品への想いへ触れて

先日、テレビで放映された、『千と千尋の神隠し』
d(データ)放送で、監督の宮崎駿さんのこの作品への想いを見ることができました🍀
ご覧になった方もいらっしゃるかもしれませんね😊

すごく奥深いお話ですし、さまざまな解釈があると思いますが、その宮崎駿監督の映画の狙いの中で、とても大切にしていたのは、「言葉」なのかなと感じました😊

改めて、作者の思いを知ることで、その様な狙いがあったのかと気付かされました😊🍀

言葉を発することはとり返しのつかない重さを持っている。

言葉は人の思いが乗るもの

言葉は残ります🌈
言葉の威力は強いです🌈
言霊となります🌈

一番好きなシーン

ちなみに僕が一番好きなシーンは、
ハクが、千尋におにぎりをあげるシーン😊と、
ハクが名前を思い出して、千尋と空を舞うシーンです🐉😊

それは、
おにぎりを渡す時の、人を包み込む様な、言葉の優しさや温かさ🍀

空を舞う時の、言葉の強さや自由🍀

を感じる場面だから😊🌈

僕は優しい言葉が好きだ🐉

諏訪大社春宮を訪れた時の雲 龍みたい🐉

以下、原文引用。

…切り抜け、体をかわし、ひとまずは元の日常に帰って来るのだが、世の中が消滅しないのと同じに、それは悪を滅ぼしたからではなく、彼女が生きる力を獲得した結果なのである。

今日、あいまいになってしまった世の中というもの、あいまいなくせに侵食し喰い尽くそうとする世の中を、ファンタジーの形を借りて、くっきりと描き出すことが、この映画の主要な課題である。

かこわれ、守られ、遠ざけられて、生きることがうすぼんやりにしか感じられない日常の中で、子供達はひよわな自我を肥大化させるしかない。
千尋のヒョロヒョロの手足や、簡単にはおもしろがりませんよぅというブチャムクレの表情はその象徴なのだ。

けれども、現実がくっきりし、抜きさしならない関係の中で危機に直面した時、本人も気づかなかった適応力や忍耐力が湧き出し、果断な判断力や行動力を発揮する生命を、自分がかかえている事に気づくは
ずだ。

もっとも、ただパニクって「ウソーッ」としゃがみこむ人間がほとんどかもしれないが、そういう人々は千尋の出会った状況下では、すぐ消されるか食べられるかしてしまうだろう。

千尋が主人公である資格は、実は食い尽くされない力にあるといえる。
決して、美少女であったり、類まれな心の持ち主だから主人公になるのではない。

その点がこの作品の特長であり、だからまた、10才の女の子達のための映画でもあり得るのである。

言葉は力である。
千尋の迷い込んだ世界では、言葉を発することはとり返しのつかない重さを持っている。

湯婆婆が支配する湯屋では、「いやだ」「帰りたい」とひと言でも発したら、魔女はたちまち千尋を放り出し、彼女は何処に
も行くあてのないままさまよい消滅すか、ニワトリにされて食われるまで玉子を産みつづけるかの道しかなくなる。
逆に、「ここで働く」と千尋が言葉を発すれば、魔女といえども無視することができない。

今日、言葉はかぎりなく軽くどうとでも言えるアブクのようなものと受けとられているが、それは現実がうつろになっている反映にすぎない。

言葉は力であることは、今も真実である。

力のない空虚な言葉が、無意味にあふれているだけなのだ。

名前を奪うという行為は、呼び名を変えるということではなく相手を完全に支配しようとする方法である。

千は、千尋の名を自分自身が忘れていく事に気がつきゾッとする。また、豚舎に両親を訪ねて行くごとに、豚の姿をした両親に平気になっていくのだ。
湯婆婆の世間では、常に喰らい尽くされる危機の中に生きなければならない。

困難な世間の中で、"千尋はむしろいきいきとしていく。ぶちゃむくれのだるそうなキャラクターは映画の大団円にはハッとするような魅力的な表情を持つようになるだろう。

世の中の本質は、今も少しも変わっていない。
言葉は意志であり、自分であり、力なのだということを、この映画は説得力を持って訴えるつもりである。
(後略)

最後に、
僕はジブリの中では、ダントツにラピュタが好きです🍀🌈

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