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『統計の歴史』を読む3
統計で見えるようになるもの、統計で見えなくなるもの
このnoteを書いたのは西田さん.
『統計の歴史』を読む2 のつづきです。
世界を数量化する動きの傍らで
第8章では、統計とともに発展したものではなく統計に対峙するものとして、レイは文学を挙げています。第8章を通じて世界を数値化することで削ぎ落とすことになる現実感や個別性を、人間の細部を繊細に描き出そうとする文学が補完してくれるという関係にあると、レイは考えています。
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統計と人文学
第8章では人間や社会の細部を描くものとして文学(小説や芸術)が言及されていますが、私はさらに広げて「人文学」がその役割を担うのだろうなと考えています。人文学は、文学や芸術学をはじめ哲学、歴史学、宗教学、言語学などが属する分野で、対象を質的に分析したり分類したり、考察したりする学問のことです。人文学ではもちろん前提となる知識や根拠の一部に数量的なデータを用いることもありますが、そのエッセンスの一つは、質的に個別的に人間や社会を理解しようとするというところにあると思います。
量的なデータと質的なデータ
私の出身である社会学を例にとってみると、社会学の下には量的なデータを扱う分野と質的なデータを扱う分野があります。
量的なデータで社会を見る場合、個人データの集積に対して統計的な数値を算出して集団の特徴を考えたり、統計的な処理を行って個人の価値観や行動の要因を推定したりします。ここで扱うデータは1、2、3など一定の間隔をもった数値であり、人それぞれが持っている微妙な差異、個別性は削ぎ落とされます。しかしその代わり、日本人全体を対象とした調査なら日本全体のことについて語ることができるなど、ある集団全体を広く見渡すことができます。
一方で質的なデータとは、観察から得られる豊かな記述や、インタビューから得られる多彩な語りのことです。それを頼りに、その人や集団の細部に目を向けて、特有の「物語」を描こうとします。数値となったデータにはもう残っていないけれど重要なはずの現実感や個別性から、その人や集団が置かれている社会のことを想像するのです。このような研究は、人文学が大切にしているものと、とてもよく似ています。
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対峙というよりも、補完関係
こうして書いてみると、社会学でも、統計と人文学の対峙があることがわかります。しかしその対峙は決して「量的なデータで統計をやるのは科学的で、質的な調査は科学ではないから役に立たない」とか、逆に「人間理解には質的な方法でしかアプローチできない」といったことを意味しているのではありません。
これは科学哲学の重要なテーマでもありますが、何が科学で何が科学ではないのかということは直ちに答えられる問いではありません。そして、量的なデータを集め統計を使っているかどうかは、科学であるかどうかを決めるにはおそらくそこまで重要な要素ではありません。このことは、政治のために使われていた統計が社会科学や自然科学のなかで厳しく鍛えられて、最近(120年前くらいから)やっと科学の正当な方法の一つとなったことからも察することができますね。
望ましいのは、全体を把握しつつ、細部にも注意を払うということです。学問にとって重要なのは、統計と統計じゃないものが、足りない部分を互いに補完し合うことなのです。
『統計の歴史』を読む、を3回にわたりお送りしました。
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