草木を育てることの「終わり」はどこなのか
草間です。
生きるためには欠かせないほど猫が大好きで、家を必要としている猫をぜひのも飼いたいのですが、夫が猫は嫌だというので、心の空洞を埋めるために尋常じゃない量の植物をこれでもかと育てています。
猫と植物は、自立しており清潔なところが似ていますが、植物とは猫ほど心を通わせることができず、相互干渉も少ないところが残念です。
この春から、お花のサブスクbloomeeの利用をはじめました。
隔週、季節の草花が郵便ポストへ届きます。というか、マンションの集合ポストへは届くというより、挿し込まれる形で、花束の入った鋭角三角形の小包みが突き刺さっています。
ポストへ受け取りに行くと、我が家と同じように花束が刺さっているお宅があり、「どこかの食卓や家のどこかでも、うちと同じ花が開いているんだなぁ」という親近感をおぼえます。
実は私は、草木と比べて花はあまり好きではありません。
20代の頃は、水をやる手間があったり枯れていくところを見なくてはいけないので、花が嫌いでした。
装飾的で色鮮やか、香りもある花は自己主張が強いせいか、視線が持っていかれてしまい、どこか疲れるような気がするからです。ぐずぐずと枯れて腐ってくる過程もグロテスクに思えてしまいます。
なので、草や枝だけのグリーンブーケのサブスクを探したのですが、なかったので、一種類でもグリーンが入っているbloomeeを選びました。
ただ、お試しで始めてみたところ、花もなかなか良いもので、ケニアやタンザニアからはるばるやってきて今ここで咲いているカーネーションやヒマワリなんかを見ていると、風土も文化も違う国の、よく知りもしない家によくまぁやって来てくれたものだと感心してしまいます。
たびたび、ドラセナやパキラという観葉植物がブーケに入って届くのですが、これらは毎日水を換えているだけで面白いように発根するので、いま仕事部屋が鉢だらけです。
届く草花だけでなく、実家からもらったオリヅルランもルーツでどんどん増えますし、子どもが世話を忘れた綿花やベビーニンジンや稲、そのへんに咲いていた野生のアマリリスの種を蒔いてみた鉢、食べ終わったアボカドやビワの種から伸びた木々、スーパーで衝動買いした葉山椒──気づけば、追いつかない水やりに大きなじょうろを買わなくてはいけなくなるほど、植物が増えていました。
ところで、草木を育てることの「終わり」って、どこなんでしょう。
ヒトよりも命の短い小動物であれば、天寿を全うするまで。子育てであれば、自立するまで、など、お世話をするところにはある程度のゴールがあるような気がしていたのですが、一年草はともかく多年草や木など、自分よりずっと長生きすることもあるでしょうし、植替えをすればするほど、ぐんぐん大きくなっていきます。
私は、お前たちとともに、いったいどこまでいくつもりだろう。
そんなことを考え、「手に負えない」気持ちに苛まれながら、芒洋とじょうろに水を汲む日もあります。
今日もまた、ドラセナがひとつ発根し、いよいよ仕事部屋が緑の巣窟となりつつあります。
植物を育て始めた当初は、草木は苦しまずに黙って死んでゆくところがいいような気がしていましたが、萎れて真っ黒になりカラカラに乾いてゆく葉などを見ていると、しずかに悲鳴を上げているようで、やはり胸が痛みますね。
その一方で、朝の散歩中、藪の中で縦横無尽に蔓を伸ばす葛などを見ると、その獰猛さに感動します。
速い動きもせず、鋭い爪も牙も持たないのに、奪い合い、時に相手を仕留めるしたたかさ。
そして、わたしもまた、このしなやかでしたたかな蔓に、絡めとられてしまったなぁ、と木漏れ日に濡れながら思うのでした。
さて、ようやく蝉も鳴きはじめたので、この秋刊行の詩集に収録予定の「サマータイム」という詩をひとつ。
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