幸せだから不幸なのだ
この世の全ての不幸は幸福の上に成り立っている。
忘れるためには覚えなければならない。
別れるためには出会わなければならない。
家出するためには家に住まなければならない。
失恋するためには恋をしなければならない。
失うためには手に入れなければならない。
騙されるためには信用しなければならない。
死ぬためには生きなければならない。
不幸になるためには幸せにならなければならない。
不幸を不幸だと感じれる人は幸福だ。不幸だと思える環境に生まれることができたのだから。本当に不幸な人は自分が不幸であることに気づかない。
よく言われる言葉がある。「幸福は得るものじゃなくて気づくもの」みたいな言葉。「失って初めて気づくもの」みたいな言葉。
この言葉は不幸にも当てはまるのではないか?幸せを得て初めて「ああ、自分は不幸だったんだ」と思えるんじゃないだろうか。
でもここで矛盾が生じる。「不幸だと思える人は幸福である」「不幸な人は自分のことを不幸だと思っていない」じゃあこの世に不幸な人はいないということになってしまう。
そもそも不幸とはなにか?胸を張って「自分は幸せだ」と言える人は少ないと思う。では逆に、胸を張って「自分は不幸だ」と言える人はいるのだろうか?
自分が思うに、不幸は幸福の延長線上にあるものだ。対義語じゃなく同義語なのだ。不幸であることは幸福なのだ。
満たされないと思うことは幸福なのだ、満たされる喜びを知っている証拠なのだから。愛されたいと願うのは幸福なのだ、愛されて育った証拠なのだから。死にたいと呟くのは幸福なのだ、自分が生きている証拠なのだから。
つまり突き詰めれば、死ぬことも幸福なのだ。だが、それがどんな死になるかは生き様によって決まると思う。
死ぬことは怖い。でも死ぬことは本当に怖いのだろうか。自分は寝ることは死の縮図なのだと思う。寝るという行為は今日に終止符を打つことだ。
まだ寝たくないと思うのはやりたいことが残っているからだ。でもいつかは眠くなる。その時にまだ寝たくないけど寝なきゃなと思うんじゃなく、そろそろ寝るかって感じで寝たいと思う。明日に期待して寝たいと思う。
そんな風に死ぬことができたらどんなに幸福かと思うのだ。