全ての人に憧れと畏怖を
自分がnoteの投稿で度々書いていることだけど、自分は本当に"普通"という言葉が似合う人生を歩んでいると思う。
親は優しくて、生意気だが憎めない弟がいて、テニスをしていたけど県大会には行けても全国大会に行くほどじゃなくて、頭は通ってた高校では良いほうだったけど全国的には大したことなくて、地方の国立大学に進んで、みんな名前ぐらいは聞いたことある企業に就職して、容姿も別に悪くないって感じで、告白したこともされたこともあって、今は付き合って5年目になる恋人がいる。
…普通だと思う。これを普通と言わずして何というのか。
でも誤解しないでほしいのは、別にこの境遇を悲観しているわけじゃない。むしろ恵まれていると思う。普通こそ幸せ、なんて言われるけど、あながち間違いではないとも思う。
でも、だからこそ、自分は色んなことを知らない。
片親を知らない。毒親を知らない。本気で死にたいと思ったこともない。孤独に押しつぶされそうな夜を知らない。留学もしたことない。留年や浪人の苦しみを知らない。障害を知らない。持病を知らない。いじめを知らない。身近な人の死を知らない。何かに人生を捧げる覚悟を知らない。
これらは漫画やアニメや小説、ドキュメントや映画なんかに腐るほど出てくる。この世に確かに実在するものなのに、自分は経験したことがない。
経験したことないってのは、きっと幸せなことで、色んな考えが頭の中を逡巡するけど、最終的に、やっぱ経験してなくて良かったと思う。
それでも、色んな苦しみを乗り越えた人が持つ強さには惹かれてしまう。それは乗り越えたっていう光の部分しか見てないから言える事だと、頭では理解している。だけど、自分には何があるのだろうと思うと、何もない。
よく、エッセイの入りとかで『わたしはなんの変哲もない人間です』みたいなことを書くくせに、すぐに留学した時の話とかする。留学もしたことない自分はどうしたらいいんだと謎の喪失感に襲われる。
要は、隣の芝は青いのだ。人が人に話せる事は、本人が乗り越えて笑い話にできたことだけだ。だから、光の部分しか見えない。燦燦と照らされた青い芝生しか見えない。
恐怖は無知から生まれる。だけど、未知に憧れる。自分は色んなことを知らない。道ですれ違ったあの人のことを、テニスでダブルスを組んでたあの人のことを、大学で同じ研究室に入ったあの人のことを、自分は知らない。その人が見せる部分しか知らない。自分のことすら、もしかしたら知らない。
だから、全ての人に憧れと畏怖を。自分はあなたに、なりたいけど、なりたくない。