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名付けの本質は「当人にどう話すか」(エッセイ)
下記の記事で、名付けのリスクについて書きました。
特に、その時点で評判のいい人に因んだ名を付けると、その後、世評が変わった場合に、当人が迷惑することがあります。
《名前》というのは、良くも悪くも付けられた人の《アイデンティティー》なのです。
この記事には書きませんでしたが、名付けの本質は、
《どんな名前を付けるか》
よりむしろ、
《当人に由来・理由を尋ねられた時に、どう答えるか》
だと思っています。
若い頃に会社の先輩と吞んでいて、話題が「名付け」になった時、彼が、
「オレは子供の名前なんて、ふたりとも、テキトーにつけたよ」
と言っていました。
それを聞いて思い出したのは、児童文学作家・あまんきみこさんのエッセイです。
当時購読していた新聞(たぶん毎日)の夕刊に連載されていたコラムでした。
(記憶の中のことなので、超・正確ではありません)
私が幼い頃、母に、
「どうして私の名前は『きみこ』なの?」
と尋ねたことがありました。
その時母は、食事の支度か何かで忙しく、
「さあ、……どうしてだったかしら」
と言いました。
それを聞いた私は、《自分の存在》が、とっても不安定なものになった気がしたのです。
ここまで読んだ私は、
「なるほど。『名前』って、自分自身のアイデンティティーなんだな」
と思ったものです。
あまんきみこさんのエッセイは、ここで終わりません。
私はなんだか不安な1日(だったかな?数日だったかな?)を過ごした後、もう1度母に尋ねてみました。
「ねえねえ、私の名前はどうして『きみこ』なの?」
すると、母はにっこり笑って言いました。
「だって、あなたが生まれた時、その名前が1番ぴったりしている、って思ったからよ」
それを聞いて私の心は安定を取り戻しました。
このエッセイを思い出した私は、呑み屋で先輩に言いました。
「子供の名前をテキトーに付けること自体はいいですが、子供本人に『テキトーに付けた』と、絶対に言ってはいけませんよ」