母を語れば [1/3] (エッセイ)
母の日に。
個人的な話ではありますが、《ジジイの忘備録》です。
ご参考になるかどうかはわかりません。
私が物心ついたころ、母は聾学校の国語教師でした。
教え子が家に訪ねてくることもあり、母は彼らと、「手話」も補助的に使っていましたが、主に「読唇術」でコミュニケーションしていた記憶があります。
その中には、聾学校の同級生どうしで結婚し、洋服の仕立てをしているカップルもいました。応援する気持ちもあったのでしょう、ある時期まで、父の背広は、その教え子の店で仕立てていました。
母の父は《隠遁者》としか言いようのない人物で、30代でメンタル系の病気を理由に隠居し、わずかな恩給と《代書屋》のような仕事で一家は糊口をしのいでいました。戦後はその収入がほぼ絶え、両親と弟妹を含む一家の生活は、夜学で准教員資格を取った母がほとんどひとりで支えていたそうです。
《隠遁者》の祖父は、子供を10人もうけた以外、生産的なことはほとんどしなかったものの、毎週のように新聞の意見欄に投稿を行い、けっこうな頻度で掲載されていたようです。
母の実家について行くと、昼寝の添い寝はいつもこの《隠遁者》で、古今東西の不思議な物語を話してくれたものです。
母は10代のころから(私は成人後に聞いたのですが)、
「女も仕事を持つべきだ」
という考えを持っていたため、20代半ばで父と結婚した後も、同居する姑や夫の反対に抗い、教職を続けていました。
「100%男の世界」だった土建業界で働いていた父は、
「女房を働かせている」
ということを「恥ずかしい」と感じており、同僚には「共稼ぎ」であることを必死に隠していたようです。
「臨月でも、でこぼこ道を走るバスに揺られて仕事に行くのは、とても辛かった」
とは、これも成人後に聞いた話です。
母は私が小学校に入ったころ一度退職しますが、2年ほどの専業主婦生活の後、再び復職し、その後は定年まで小学校の教師を続けました。
そのころ、PTA協議会が発刊していた「子とともに」(現在は「ゆう&ゆう」)という月刊誌に、母は教育現場での問題や、専門としていた図書教育に関して頻繁に投稿していました。目次に名の載った号をいくつか見たことがあります。
このほか、彼女の「自慢話」として聞かされたのは、「作詞賞」応募です。
交通安全協会のような機関が《黄色い帽子》普及のために募集した《黄色い帽子の歌》の歌詞公募に応じ、1等賞は逃したものの、「佳作」を取った、とよく言っていました。
おそらく、これ以外にもいくつかの「カキモノ挑戦」をしていたことでしょう。
赴任した小学校ではたいてい、図書主任のような役割を務めるとともに、「百人一首クラブ」を作り、課外指導を行っていたようです。
私も幼いころから「読む」ことはもちろん、「書く」ことも奨励され、幼稚園時代から日記を付けていました。
小学校1年の時には作文で名古屋市から賞をもらい、東海ラジオの生番組で他の年長学年受賞者5人と共に、座談会のような番組に出たことがあります。
この経験は、幼い私に、
「放送番組とは、本質的にはヤラセだ」
という事実を突きつけました。
父は高度成長期はずっと工事現場に単身赴任しており、2週間に1度かひと月に1度帰ってくるだけだったので、家庭のほとんどのことは母が決めていました。
父親がいないので基本的には「放任」で、小学校4年ぐらいから、夏は大学生がリーダーを務める子供キャンプに参加し、中学になると子供だけで山に登っていました。
母に最も感謝しているのは、「読書」と「旅」に関して私の希望をほぼ100%叶えてくれたことです。しかし、これは、彼女自身に稼ぎがあり、自分の自由になる金を持っていたから可能だったことですが。
もうひとつ、母と暮らした18年間で印象に残っていることがあります。
15歳、高校受験を控えた中学3年の時のことです。
第一志望は県立高校でしたが、進学校である私立A高校も併願受験する予定でした。
そんなある日、職員室に呼ばれます。
「お前にこういう話が来ている。家族と相談して決めなさい」
手っ取り早く、進学クラスの実績を上げる作戦のようでした。
家に帰って母に話すと、私にアドバイスすることもなく、父に電話で相談しろなども一切なく、次のように言われます。
「あんたのことなんだから、あんたが自分で決めなさい。我が家としては、あんたがA高ではなく、B高を受けるなら、受験料の1万円は払わなくていいことになる。その1万円は、払うつもりで用意してあったのだから、節約できた1万円はあんたにあげる」
50年前の中学生にとって、1万円は大金でした。
私は自分の部屋にこもってあれこれ考え、迷いに迷いました。
県立高校に合格する自信はある程度あったものの、受験は水もの、何が起こるかわからない。落ちた時に家から遠く、しかも、生徒の多くが体育系かヤンキー系のB高校はちょっとなあ……と。
2日間ぐらい朝から晩まで考え、誰にも相談せずに結論を出しました。
リスクを取らず、魅力的な1万円を諦め、B高校からのありがたいオファーはお断りすることを教師に伝えました。
ちなみに、A高校の受験は数学の解答用紙に名前を書き忘れる、という致命的なポカをしたものの、たぶんお情けで合格しました。幸い、県立高校も受かり、そちらに進学することになりました。
重要なのは、その、
《1万円とリスクを取るか、否か》
の判断を一任された時以降、
「自分のことは自分で決める」
というのが私と母の間で暗黙の了解になったことでした。
人生において、かなり大きな《契機》だったと思います。
母は先天性の心臓弁膜症で、自分は長生きできないだろう、とずっと言っていましたが、83歳まで生きました。