ちゃんとそこにある
雪山が好きだ。
雪が降ると、山に模様があらわれる。
輪郭が見えて、
凹凸が分かって、
そこに木があることを思い出す。
山に木があるのなんて当たり前なのに、例えば夏の山だと一様にの〜っぺりして「山しか」見えない。
木が存在がぼやけてしまう。
それに比べると、濃淡から木の並びが見える冬の山はけっこう好きだ。
ちゃんとそこに木があることが見えて、なんだか景色が華やいで見える。
それから、細めの三日月が好きだ。
欠けていく途中なのか、満ちていく途中なのか、いずれにしても「もう間もなく」という感じがして、好き。
触れたら突き刺さってしまいそうで、「近寄るとケガするぜえ」といわんばかりの佇まいが、好き。
夕方の早い時間帯にしか見られないのが、そっけなくて恥じらいがあって、好き。
欠けて見えない部分もちゃんとそこにあるって「見える」のが、好き。
「見えなくても、ちゃんとそこにある」
ってのは、年末に見た刀ミュ千子村正・蜻蛉切双騎出陣で知った、世界の眺め方だ。
この価値観がとても好きで。
自然を眺めていると、そういう風景がたくさんあるなあと気づかされる。
昼間の星々、
空をめぐる風、
雪に埋もれる息吹、
あとなんだろう、きっとまだまだある。
たぶん、人間においてもそうなんだろうと思う。
良心とか、思いやりとか、やさしさとか。
もちろん、疑心とか、憎しみとか、妬みみたいなものも。
きっと愛とか、魂とか、も……?いや知らんけど。
何が書きたいかというと、いろんなものが「ちゃんとそこにある」なら、その存在に気づける人間でいたい、ってことだ。
何かによって欠けたもの、
何かの理由で隠されているもの、
たまたま今は見られないもの、
あえて秘められているもの。
きっと、こういうのを見ようとするのは、もしかしたら「生きづらさ」なんて言われたりするのかもしれない。
たしかに、人間の感情とか空気とか文脈とかそういう「見えないもの」を見ようとするとヘトヘトになる。
だから、人間関係については「無理に見ようとしない」のもうまく生きる術のひとつなのだろうとは頭では分かっている。
それでも、「ちゃんとそこにあるもの」を見ようとする気持ちを忘れないでいたい、諦めたくないのだ。
というか、たぶんどうやったってそういう風に生きてしまう、わたしは。
そういう景色の奥ゆきに、どうしたって思いを馳せてしまう。
30年近く生きてきて、そういう性分なのだと分かってしまった。
まあ、だから、つまるところ、それを肯定したくて「ちゃんとそこにあるものに気づける人間でありたい」とか書いちゃっているのだ。
そういえば、わたしの大好きな曲のひとつに、
平井大 "Slow & Easy" がある。
最近、この曲のこの歌詞をよく思い出す。
このフレーズがたまらなく好きだ。
今日の帰り道は、この曲のこの部分がやたらと脳内で流れていた。
その時に見た夕焼けはものすごく鮮やかで、雪山は荘厳で、月は凛としていた。
少し歩いたら、川に3羽の白鳥が穏やかにたゆたっていた。
優雅に見えたあの白鳥たちも、水の中では足をバタバタしていたのだろうか。
そんな風景の広がりに見とれながら、ここに書いてきたようなことを、つらつらと考えるなどしたのだった。
ヒマなのかな。
ヒマなのかもな。
でも、こういう時間がとても豊かだなと思う。
今日はなんだか、いい1日だった。
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