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ちゃんとそこにある

雪山が好きだ。

2024.01.14の山

雪が降ると、山に模様があらわれる。

輪郭が見えて、
凹凸が分かって、
そこに木があることを思い出す。

山に木があるのなんて当たり前なのに、例えば夏の山だと一様にの〜っぺりして「山しか」見えない。

木が存在がぼやけてしまう。

それに比べると、濃淡から木の並びが見える冬の山はけっこう好きだ。

ちゃんとそこに木があることが見えて、なんだか景色が華やいで見える。


それから、細めの三日月が好きだ。

2024.01.14の月

欠けていく途中なのか、満ちていく途中なのか、いずれにしても「もう間もなく」という感じがして、好き。

触れたら突き刺さってしまいそうで、「近寄るとケガするぜえ」といわんばかりの佇まいが、好き。

夕方の早い時間帯にしか見られないのが、そっけなくて恥じらいがあって、好き。

欠けて見えない部分もちゃんとそこにあるって「見える」のが、好き。


「見えなくても、ちゃんとそこにある」
ってのは、年末に見た刀ミュ千子村正・蜻蛉切双騎出陣で知った、世界の眺め方だ。

この価値観がとても好きで。

自然を眺めていると、そういう風景がたくさんあるなあと気づかされる。

昼間の星々、
空をめぐる風、
雪に埋もれる息吹、
あとなんだろう、きっとまだまだある。


たぶん、人間においてもそうなんだろうと思う。

良心とか、思いやりとか、やさしさとか。

もちろん、疑心とか、憎しみとか、妬みみたいなものも。

きっと愛とか、魂とか、も……?いや知らんけど。


何が書きたいかというと、いろんなものが「ちゃんとそこにある」なら、その存在に気づける人間でいたい、ってことだ。

何かによって欠けたもの、
何かの理由で隠されているもの、
たまたま今は見られないもの、
あえて秘められているもの。

きっと、こういうのを見ようとするのは、もしかしたら「生きづらさ」なんて言われたりするのかもしれない。

たしかに、人間の感情とか空気とか文脈とかそういう「見えないもの」を見ようとするとヘトヘトになる。

だから、人間関係については「無理に見ようとしない」のもうまく生きる術のひとつなのだろうとは頭では分かっている。

それでも、「ちゃんとそこにあるもの」を見ようとする気持ちを忘れないでいたい、諦めたくないのだ。


というか、たぶんどうやったってそういう風に生きてしまう、わたしは。

そういう景色の奥ゆきに、どうしたって思いを馳せてしまう。

30年近く生きてきて、そういう性分なのだと分かってしまった。

まあ、だから、つまるところ、それを肯定したくて「ちゃんとそこにあるものに気づける人間でありたい」とか書いちゃっているのだ。


そういえば、わたしの大好きな曲のひとつに、
平井大 "Slow & Easy" がある。

最近、この曲のこの歌詞をよく思い出す。

幸せは「作るもの」じゃなくて
「気づくこと」なんだって きっと

平井大 - Slow & Easy

このフレーズがたまらなく好きだ。

今日の帰り道は、この曲のこの部分がやたらと脳内で流れていた。

その時に見た夕焼けはものすごく鮮やかで、雪山は荘厳で、月は凛としていた。

少し歩いたら、川に3羽の白鳥が穏やかにたゆたっていた。

優雅に見えたあの白鳥たちも、水の中では足をバタバタしていたのだろうか。


そんな風景の広がりに見とれながら、ここに書いてきたようなことを、つらつらと考えるなどしたのだった。

ヒマなのかな。

ヒマなのかもな。

でも、こういう時間がとても豊かだなと思う。


今日はなんだか、いい1日だった。

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