
志村貴子『おとなになっても』
気づけば、大好きな漫画が完結していた。
志村貴子先生の『おとなになっても』(全10巻)。
好きな漫画の最新刊を追わなくなったのが、2023年だったなあと思う。
でも年が明けてやっと、最終巻まで読めた。
完結おめでとうございます。
ちょっと寂しい。
『おとなになっても』は、女性どうしの恋愛を軸に、パートナーのこと、家族のこと、友だちや職場関係のこと、おとなのこと、こどものこと……
たくさんの人間模様を描いた漫画だ。
この作品は、登場人物の悩みや葛藤や覚悟、人間の「ままならなさ」を時にやわらかく、時に鋭く、時にやさしく、時に残酷に描いている。
善悪や良し悪しをパキッと決めきることなく、グレーゾーンの淡いと、果てしないグラデーションを見せてくれる。
絶えずわたしたちに何かを問いかけながらも、そっと寄り添ってくれるような作品だ。
抽象的な感想であれだが、まあとにかくこの作品が大好きなんである。
この漫画に出会ってから、日常のふとした瞬間にこの言葉を思い出すようになった。
なかったことには、ならない…
よくもわるくも、
「それ以前には戻れない」
ものやことって、たくさんある。
自分が人に渡したこともあれば、自分が人から受け取ったことも、努めてそうしたものや、図らずもそうなったものも、いろいろだ。
というか、そんなものばかりなのかもしれない。
それでも大事なものをあきらめないたくましさが、この物語にはあった。
この漫画を読みながら、「おとなになる」ってどういうことだろうと考えた。
社会を知って「おとな」になったから、というか「おとな」にならざるを得なかったから、なんとなくごまかせるし、なんとなく見ないふりできて、なんとなくやり過ごすことができるようになる。
そういう「おとな」らしさを覚えてしまう哀しさって、ないだろうか。
「おとな」な生き方ばかりうまくなる虚しさって、ないだろうか。
でもこの漫画が見せてくれたのは、
「おとなになっても」どうしようもなく漏れ出てしまう・あふれてしまう人間味だ。
そしてそれでも生きてゆく強さだ。
「おとなになっても」本当は、好きなものは好きで、無理なものは無理で。
彼女・彼らの見せてくれた、そうした人間のままならなさが、たまらなく愛くるしかった。
「おとなになっても」結局ままならないことばかりだけど、それでも自分を赦し他人を赦しながら生きていこうという覚悟を、この作品に見た。
わたしたちへの応援歌のような物語だったように思う。
この物語の完結を見届けた今、わたしは自分の「好き」についてもう一度考えるなどしている。
恋愛の文脈だけでなくて、人付き合いについても、ものやことに対してもそうだし、家族や友人や仕事や推しや、何についてもだ。
止まるを知らない「ままならなさ」の激流の中で、自分の足で立ち続けるためには、「好き」というシンプルな軸がとてつもなく大事なのかもしれないと思い至っている。
彼女たちに教えてもらったことを反芻しながら、自分のままならなさとも、自分の「好き」とも、もう少し向き合ってみよう。