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サカナクション『怪獣』に照らされて

サカナクションが2/20に新曲『怪獣』をリリースして歓喜しているのだけれど、聴けば聴くほど分かるようで分からなくて。

最高にかっこいいサウンドに自然と身体はゆれてしまう反面、歌詞には心の奥深いところでずっと問いかけられてる感覚があって、そのゆさぶられ具合が心地いい。

まだ分かりきっていないのに、ひとりじゃない感じがする。

これだからサカナクションが好きなんだよな、とあたたかい気もちになる。


アニメ『チ。―地球の運動について―』のタイアップ曲だから、そこで描かれる歴史や宇宙や人間や生き様みたいなところが出発点なのかもしれないけれど、どうだろうこの距離の近さ。

現代を生きるわたしたちのことを歌っているといわれても、ぜんぜん違和感がない。

いつかの時代の誰かの歌かもしれないけれど、でもやっぱり今を生きるわたし・わたしたちの歌でもある気がしてならない。

そんな『怪獣』、分かった気になるのはもったいなくて、まだまだこの楽曲の宇宙をただよっていたいのだけれど、ひとまず現時点での感想を記録しておきたい。



どんな「さびしさ」も

サカナクションのどの曲でも一郎さんの歌詞の好きな点はたくさんあるのだけれど、特に「夜」の風景が好きで。

この『怪獣』でもその夜の景色がどこか恐ろしくどこか切なくそしてうつくしく、また星々の存在がそれを一層あざやかにしている印象だった。


例えばここ、

丘の上で星を見ると感じるこの寂しさも
朝焼けで手が染まる頃にはもう忘れてるんだ

「人は死んだら星になる」みたいな言い方をするけれど、夜空に浮かぶ星々を見てると誰かの顔が浮かぶことはたしかにままある。

例えば、夜に丘の上で星空を見上げてるとして、わたしだったらその時自分自身の存在がふわふわしてしまうかもしれない。

自分の身体性というか今ここに存在していることを忘れて、生命とも見紛う夜空の光の粒にいつかの誰かを重ねたり懐かしんだりして、無性に恋しくそして寂しくなってしまうかもしれないな、吸い込まれそうになってしまうかもしれないな、と。

夜の深い闇の中では、自分の身体すら見えなく、ただ頭上にまたたく星々しか見えないのだから。

ここで「寂」という漢字でもって「さびしい」と歌われるのは、星々を前にひとりぼっちを自覚したさびしさなのかなと思う。


でも、日が昇ってしまうとその星々は見えなくなってしまうわけで。

その代わりに陽の光に照らされて視界に入ってくるのは、星空じゃなく地球の風景で、朝焼けに染められた自分の手のひらで。

それを見てやっと自分の体温や血のめぐりや存在そのものを思い出せることがある。

なんといってもここは「夜明け」の風景。

視線が星空から己の手のひらに移ることで、ハッと我に返るような、何か新しい風を感じるような、そんな気配を感じた。


それに似た歌詞で、後半になるとこう歌われる。

点と線の延長線上を辿るこの淋しさも
暗がりで目が慣れる頃にはもう忘れてるんだ

「点と線の延長線上を辿る」というのは、惑星の軌道とも、決まりきった風習や生き方とも受け取れるのだけど、つまるところ「明るみの孤独」みたいな感じがする。

というのと、点があること、それをつなぐ線があること、でもその延長線上を辿っていることが分かるのは、そこに光が当たっているからで。

点や線や現在地が分かっちゃうからこそのつまらなさ、決まりきってるからこその孤独みたいなものってきっとあって、そういう心的な満たされなさ、つまりは「さびしさ」を歌っているからここでは「淋」という漢字がつかわれているかなと感じた。

でも暗がりの中では、点も線も今どこを歩いているのかも見えなくて分からないはずで。

「知らぬが仏様」などとよくいうが、まさにその分からなさが時には「自由」になる、なにも見えない暗がりの中でこそ解放されるものがある、そう思うのだ。


何がいいたいかというと、明るみに居たら明るいなりに淋しいし、暗がりに居たら暗いなりに寂しいし、ひとりぼっちでも誰かといても結局はさびしいよね、ということ。

しかも、その明るみの孤独は暗がりにいけば解消されるってわけでもなくて、暗がりにいけばそこにはまた別のさびしさがあって。

たぶん人は、そういう物理的にも、身体的にも、心的にも、明るみ・暗がりを行ったり来たりシーソーみたいにバランスをとってうまいこと生きてるのかもしれないなって。

ここで大事なのはきっと、「忘れてしまう」ってこと。

どんなに寂しい夜も、どんなに淋しい道も、いずれ忘れてしまうのなら、それはひとつの救いではないだろうか。

ここで挙げた2箇所の「もう忘れてるんだ」というフレーズは、わたしには希望に聴こえた。


そんなわけで、考えすぎかもしれないけれど『怪獣』の歌詞のこの部分は本当に胸にくるものがあった。

まだぜんぜん分かってないはずだけど、「分かる、分かるよ……」と思わずにいられなかった。

本当に、一郎さんは孤独のその影の濃さも谷の深さも知ってる人だと思った。


「怪獣」になるまで

表題にもなっている「怪獣」という言葉。

歌詞の中では「怪獣」が4回出てくるのだけど、そのワードの意味と意志の宿り方があまりにあざやかで切なくもかっこいい。

まずひとつめは、冒頭。

何度でも
何度でも叫ぶ
この暗い夜の怪獣になっても
ここに残しておきたいんだよ
この秘密を

あくまでわたし個人の印象の話だけれど、「(ならないほうがいいかもしれないけど)怪獣になってしまったとしてもそれでも何としても」「この秘密を」「残しておきたい」というつよい意志の芽生えが、この冒頭のかっこよさだと思っている。

でもまだ、この時点では「怪獣」に自ら「なったわけではない」んだよね、たぶん。


で、「怪獣」というワードが2回目に登場するこうなる。

でも怪獣みたいに遠く遠く叫んでも
また消えてしまうんだ

「怪獣 "みたいに"」ってことは、まだここでも自覚して怪獣になるわけじゃなさそうだ。

ここでは、「"また" 消えてしまう」ともう何度もくり返しているであろう叫びの届かない虚しさが一瞬よぎるのだけれど、これはこのあとの歌詞で払拭される。

君に話しておきたいんだよ
この知識を

1回目では「ここに残しておく」だけだったのが、2回目では「君に話して」に変わる。

「また消される」としても、確実にバトンは託されている。


それが3回目の「怪獣」となると、こうなる。

だから怪獣みたいに遠くへ遠くへ叫んで
ただ消えていくんだ

ここもまだ「怪獣みたいに」だ。

でも2回目とはぜんぜんちがう。

ここでは、2回目の「叫んでも消えちゃう、それでも」という願いじゃなくて、さも当たり前かのように「だから叫んで、"ただ" 消えてくんだ」という意志のつよさと、「でも未来は光ってる」という希望と信念をヒシヒシと感じずにいられない。

なにせこの直前を思い出してみてほしい。

僕は知りたいんだ

である。

この「僕」とは、2回目の「怪獣」の直後に出てきた「君」かもしれないし、そのずっと後かもしれない。

誰かは分からずともバトンは確実につながっているし、「それでも僕は」と言わんばかりに信念が強固になっていくのがありありと描かれている。


そして最後にはこう歌われる。

今何光年も遠く 遠く 遠く叫んで
また怪獣になるんだ

ついには自ら「怪獣になる」のだと。

ここまでの3回の「怪獣」の表現には距離というか客観性があったが、この最後の「怪獣になる」には自覚も意志も宿っている。

それだけの積み重ねと、果てしなさと、覚悟をはらんだフレーズでこの曲はしめくくられる。

曲全体の盛り上がりも相まって、なんてドラマチックな展開だろうと感動せずにいられなかった。

最初に聴いたときには、「寂しい」や「消えていく」といったフレーズになんとも言えぬ切なさ・虚しさみたいなものを感じていたのだけれど、くり返し最後まで聴いてみるとどうだろう。

こんなにも生命力にあふれた孤独もあるのかと感動しっぱなしである。


「好都合に未完成」それならば

ふわっと、なのだけれど、この「未完成」ってのは希望かもしれないと思った。

未完成であることも足りなさやデコボコがあることも、完成しちゃってるよりも、全然いいかもしれない。

つくづく「人は見たいようにしか見ない」というようなことを最近考えていたのだけれど、まさにそれは「好都合に」しか世の中を見ていないってことなのかもしれないなと。

だとしたら、ほんとにウンザリするよう歪な世の中だけど、その未完成さを好都合にとらえちゃって生き抜くのも、処世術のひとつなのかもなって。

「叫んでも消えちゃうから虚しい」じゃなくて、「消えてもそれでも叫びつづけたいもの」をあきらめずに、そういう意志の宿るところに光を当てて育てていけたら、あわよくば誰か・次の世代に渡せたらって、願ってしまった。

まあわたしにそういうアツいものをもてる・見つけられるのかは置いといて、考え方として。


「でも」と「だから」の間で

『怪獣』を聴いていて何度も聴こえてくる「でも」と「だから」。

『怪獣』に思い知らされたのは、「でも」や「だから」の前と後ろに何を言うかで世界は変わる、ということ。

これはわたし自身への気づきなのだけど、わたしは「でも」も「だから」も何かをあきらめる時や言い訳したい時に使いがちだったかもしれない。

でも『怪獣』は違う。

「でも」や「だから」の置き方で、こんなに迷いなく前を向けるのかと。

でも
この未来は好都合に光ってる
だから進むんだ

今からでも、明日からでも、うまくいかなくても何度でも、「でも」や「だから」の後には歩みを進める言葉を置いて、そこで軌道修正していけたらいい。

『怪獣』にはそうやって前を向かせてくれるパワーを感じたのだった。


わたしも「怪獣」

わたしも何かの側面では誰かにとっちゃ「怪獣」なんだろうと思う。

最近すごく思う、詳細は書きたくないけれど。

消えちゃいたいなとも思う。

正直、この曲にはものすごく感動しているし、すでに大好きで大事な一曲なのだけれど、圧倒されてもいる。

わたしの中にも怪獣はいるとして、それでも叫びつづけられるだろうか、「でも」「だから」と何度も立ち上がることができるだろうかと。

今はちょっと無理かもしれない。

消えてしまうまで叫びつづける必要はない、消えないでいることのほうが大事なこともある、とも思う。

一方で、誰かの叫びには気づけたらなって願っちゃうのは傲慢だろうか、傲慢だろうな。

じゃあせめて、わたしの中の怪獣とどう生きていったらいいんだろう。

今の段階でのわたしの答えは、こうだ。

わたし自身がちゃんと自分の叫びに気づいてあげること。

「知りたい」を大事に育てること、あきらめないこと。

底なしにみえる「さびしさ」もいずれ忘れられる瞬間がくるのを忘れないこと。

「未来は好都合に光ってる」のを忘れないこと。

『怪獣』に教えてもらったことだ。

うまくできなくても、「でも」「だから」と方向転換してちょっとずつ進んでいけたらと思う。

この「自分の中の怪獣」みたいなテーマについてはこれからも考えつづけていきたい。


『怪獣』と夜明けの気配

わたしは山形の冬をすごしているのだけど、心身ともにヘトヘトで。

「冬はもういいってば〜」って、天気予報の雪だるまマークを見るたびに思う日々である。

でも、だからこのタイミングで『怪獣』のフルが聴けて本当によかった。

『怪獣』が見せてくれた孤独の風景と、未来の木漏れ日みたいな光が、春までなんとか引っぱってくれそうな気がしている。

わたしがこの曲から感じた生命力をエネルギーにしてもう少し生き抜いてみようかな。

そうやってサカナクションはいつも心に夜明けの気配をくれるのだった。

それに、なかなか朝がこなくても、サカナクションと過ごす夜なら愛せるかもしれない。


とにかく今は、この『怪獣』の見せてくれる宇宙を、分かった気になんてならずにまだまだ眺めて漂って味わって考えつづけてみようと思う。

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