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高野洸 "zOne" の色彩

わたしは未だ、高野洸の新曲が世に出る瞬間を目撃できていない。

彼に出会った頃にはすでに "zOne" が世に出て数ヶ月経っていた。

そんな折、次なる新曲 "ex-Doll" の発売が近づいてきている。

そこで年が明ける前に、現時点の最新曲 "zOne" を改めて味わっておきたい。

安定の周回おくれ、拡大解釈はご愛嬌ということで。

読むにあたっての合言葉は「せやろか?」だ。



"zOne" を聴く・見る

歌詞に見る「到達点」

まずは何よりも、高野洸本人のことば・思いを見てほしい。


そしてここからは、筆者個人の感想だ。

まず、全体像だ。

本人の作詞曲を中心に、発売された時系列順に高野洸の楽曲を聴いていくと、心情のベクトルが「内から外へ」向かうものが多いと感じる。

例えば、自分以外の「他者」の存在であったり、現在よりも「過去」や「未来」であったり、ここではないどこかであったりと、「外世界」への感度が強い印象がある。

それは心情面でもそうで、「後悔」「奮起」「追憶」「羨望」など、いつもどこか現状への満ち足りなさがうかがえるような、そんな印象だ。

高野洸の楽曲の中で描かれるのは、いつも鏡うつしのように「外」を経由した、どこか客観的・相対的な主人公のイメージだ。


そういう点で、"zOne" はこれまでの楽曲とは一線を画す気がしている。

視点のベクトルが徹底して「内側」に向いているのだ。

自分を主語にして、今ここ、この瞬間にフォーカスし、現状を受け入れ圧倒的に「肯定」できている。

そして外野のノイズから解き放たれたような、精神的な静寂がある。

それがこの曲の大好きなところのひとつだ。

まあそりゃあ「ゾーン状態」をテーマにしているんだからそうなるわな、という話だが、これまでのディスコグラフィーを加味するとそのテーマが重みを持ちはしないだろうか。

「客観的」「相対的」だったそれまでの曲に対して、ここまで「主観的」視点で、「絶対的」な自信にあふれた "zOne" は、歴代の楽曲のひとつの節目になるような気がしている。


では歌詞をじっくり辿っていこう。

個人的に "zOne" を象徴するフレーズはここだと思っている。

見渡す限り唯一人 see ya

時系列に楽曲をたどって、"zOne" を聴くと、わたしは本曲の主人公を
「やっと一人になれたんですね?!」
と祝福したくなる。

それくらい、それまでの楽曲が相対的で、客観的なイメージが強かったのだ。

常に誰かからの視線にさらされているような、一人になりきれないしがらみがまとわりつくような。

だから "see ya" と軽やかに別れを告げる歌詞も、解き放たれる感じでとても好きだ。

後に歌われる、

皮肉にも皆の机上論は軽く越えた

も象徴的だ。


そういえば、冒頭の

feeling high beyOnd One

の「"一" の向こう側」という表現が、一人すらをも超える、つまり「自意識を超える」というニュアンスにもとれて、ここから始まるこの曲の意味合いに思いを馳せずにいられない。

この部分は、

皮肉にも俺の理想像は軽く越えた

につながるようにも見える。

「一人になる」といのは、自分を客観視・俯瞰するもう一人の自分をも超えていくことなのかもしれない。


さて、冒頭の話に戻ろう。

何の恐れももう無い
虚に消えた不安
明らか不利でも nah na-na-na-na
上に上に這う nah na-na-na-na

で歌われる「恐れ」「不安」「不利」からの解脱、解放。

以前であれば、フォーカスされがちなのはこの部分であったイメージだ。

しかし今回はそれを手放し、

内なる声を聞け
虫の知らせ信じ通せ
脳が果てるまでstay fOcused

耳を澄まし、信じ通し、集中するのは、あくまで自分の「内世界」だ。

それが後半に入ると、

秘めたる欲も増えるが
野生の勘で選別せよ
変わらない本能nOt fake

と、いよいよその主観性が深まり、研ぎ澄まされていく。


ところで、「ゾーン状態」つまり「極限の集中状態」を、高野洸本人は「丸」のイメージだと言っていた。

そのため "zOne" はじめ "O" の字が大文字なのだと。

この丸のイメージ、筆者としては、奥へ奥へと没入し「深まっていく」「入り込んでいく」「潜り込んでいく」というトンネルのようなイメージがある。

だが "zOne" の歌詞で注目したいのは、「飛ぶ」というイメージだ。

上に上に這う nah na-na-na-na

zOne 今なら飛べそうな夜空の星 see ya

prObably flying
飛べる飛べる飛べない自分は居ない

上に上に舞う nah na-na-na-na

この「飛ぶ」イメージに、何かから飛び立つ・解き放たれる、「解放」の意味合いを見てしまう。

そしてこれらの「上へ」のイメージは、繰り返し歌われる、

nO.1はいただく 誰かが割って入る暇もなく

に帰結する気がしている。

研ぎ澄まされた純な向上心、闘争心、上昇志向。

今この瞬間の自分自身に集中・没頭しながら見据えるのは、足元でも手元でもなくあくまで「上」であり "nO.1" つまり「頂点」なのだ。


こう見ると、"zOne" はひとつの「到達点」なのかもしれない。

誰かとの比較じゃない、過去や未来じゃない、遠くのどこかじゃない、ノイズから解き放たれた、今この瞬間の研ぎ澄まされた静寂の中に聴く、自分自身の内なる声。

それを裏打ちするのは、以前の楽曲にはなかなか描かれなかった「充足感」と「自信」だ。

そんな "zOne" に、ひとつの到達点を見るのだった。


MVの色彩、水と光に芽吹くもの

筆者のわるいクセで、MVをちゃんと見ないまま楽曲を聴き込むだけで数ヶ月が経っていた。

だってこのトラックも歌声も、音色・ビート・ラウドネス・全体のバランスに至るまで、あまりに耳心地が良すぎるんだもの。

と、言い訳はこれくらいにして、最近改めてMVを見たのだが、そのなんとうつくしいこと。

周回遅れにもほどがある。

これまでの記事にも何度か書いてきたが、高野洸を象徴するキーワードのひとつに「色彩」があると思っている。

"zOne" のMVは特にその色彩の鮮やかさが印象的だ。

"zOne" のコンセプトカラーはブルーが中心だが、MVにはたくさんの色彩が散りばめられている。

そこで注目したいのが高野洸のまとう、「真っ白な衣装」だ。


先に、高野洸のキーワードに「色彩」があると書いた。

その両端にあるのは、「白」と「黒」であり、「光」と「影」だとわたしは思っている。

そして改めてこのMVを見てみよう。

映像を彩るさまざまな色が、高野洸の身を包む真っ白な衣装を何色にでも染め上げていく。

そしてこれを見て思った。

高野洸の色彩の中の「白」は、
「何色にでも染まりうる、白」なのではないかと。

そして、その対極にある「黒」は、
「たくさんの色が混ざりに混ざった、黒」なのではないかと。

これ、「考えすぎだな〜」と自覚しながら書くが、白の「染まる」というのは高野洸の「役者」の側面にもつながるし、黒の「混ざる」というのはそのマルチな活動の幅広さにも、そこに集まる視線の多様さにもつながるような気がしている。

そんなわけで、"zOne" のMVの彩りには何とも言えない感動を覚えてしまうのだった。


そして、MVの中に何度も差し込まれるモチーフがある。

「水」だ。

水の、したたり落ちる雫・ガラスをすべる水滴・たゆたい広がる波紋が「丸」を象徴しているのかもしれない。

この水が差し込まれる感じが、わたしは好きだ。

水の、どんな形にもなじむやわらかさと、ぶつかれば高らかな音を奏でる軽やかさ、無色ながらも色づくこともできる透明感、はじけて分散することもあればくっついてひとつにもなれる自由自在さ、流れて循環しては命を育む刹那的な神秘……水っていいよね、あ、ここはただ筆者が水モチーフが好きというだけの話なのだけれど。

考えてみると、歌詞にある、感覚の研ぎ澄まされていく様、ノイズから遠ざかっていく様は、「水の中」にいるときのあの感覚に似てはいないか。

視覚も聴力も鈍り、身体の内側の感覚が浮き出てくるような、あの感覚だ。

そして特筆しておきたいのが、作中に一度だけ登場する
「花」だ。

花がすくすくと育ち花開くには、土が、空気が、水が、光が必要だ。

映像の中の、さまざまな色を投影する「光」、差し込まれる「水」、靄がかかったような演出で可視化された「空気」、そしてこれまでの経歴や歌詞の「自信」を「土」とするならば、そのすべてが「一輪の花」の花開を支える要素のようで、この曲 "zOne" に一層の愛着を覚えるのだった。

ちなみにこれは蛇足だが、「洸」という字は、さんずいの「水」と、「光」で構成される。
だからこそ、「花」の花開く映像が、高野洸にぴったりだと思わずにいられない。


そしてダンスパフォーマンス版も見逃せない。

高野洸の音楽は、そこにダンスが加わるとさらに「音の数」が増える。

ビートやメロディーに動きが乗るだけじゃなく、音の隙間に細やかな身体性が差し込まれ、音が可視化されるのだ。

こうして何度も出会い直すことで、ひとつの楽曲がより一層その味わいを深めていくのだった。


"ex-Doll" を見据えて聴く "zOne"

先日、次なる新曲 "ex-Doll" のビジュアルが公開された。

(あー、たのしみ。ほんとたのしみ。)

ここからは、ひとつの「到達点」ではないかと位置づけた "zOne" の、その先を想像してみたい。

※あくまで想像だ、お忘れなきよう、合言葉は「せやろか?」だ。


まず、"ex-Doll" というタイトル。

「脱する」「離れる」「出る」という接頭語 "ex" が目を引く。

それを「人形」を意味する "doll" につけることで、直訳としては「脱・人形」という意味になる。

「人形」これが何を意味するのかが、まずはとても楽しみだ。

個人的な予想では、「役者」としてさまざまな「キャラクター」を演じてきた高野洸だからこそ意味をもつ単語のような気もしている。

そもそも2023年、高野洸の役者としてのキャリアはひとつの節目を迎えたのではないだろうか。

『舞台「キングダム」』の上演、『舞台「ヒプノシスマイク-Division Rap Battle-」』の卒業などを経て、後半はアーティスト活動が中心となった一年であった。

この一年を経て迎える、ソロアーティスト活動5周年と "ex-Doll"、想像するだけで胸が高鳴ってしまう。

ここで、"ex-Doll" を見据えてもう一度、"zOne" を聴いてみよう。

「脱・人形」の前の静けさ・没入。

そう位置づけると、"zOne" のまとう静寂は、殻を破る前の「サナギ」のようなイメージが浮かんでくる。

実際はどうか分からない。

ひとまず現時点で受け取るイメージは、そんな感じだ。


そしてビジュアルの話もしておきたい。

"zOne"
"高野洸 5th Anniversary Live Tour「mile」〜1st mile〜"
"ex-Doll"

この3つのキービジュアルを並べてみた時に、その衣装につながりを感じないだろうか。

白に統一された "zOne"、
白に黒を重ねた "mile"、
そして黒をまとった "ex-Doll" だ。

ただの偶然かもしれないが、これは空想を膨らまさずにはいられまい……。


"zOne" に感じた充足感・解放・覚悟の先にどんな景色が広がるのか、どんな音楽に出会わせてくれるのか、今度こそリアルタイムで刮目していきたい。

どんな楽曲でも、われらが高野洸の音楽なのだ、全幅の信頼でもって迎えようじゃないか。

なにせ筆者にとっては、初めて体験する新曲リリースの瞬間だ。

楽しみでクリスマスも正月も霞んでしまいそうだ。


さいごに

はい、メインは "zOne" です、はい。

勢いにまかせて書いてきたが、急に小っ恥ずかしくなってきた。

今回も深読みがすぎて脳内ではすでに反省会が繰り広げられている。


とはいえ、2023年12月時点の筆者にとって、今年のハイライトのひとつには必ず「高野洸との出会い」がある。

そしてはじめて聴いた彼の曲が "zOne" だったので、このタイミングでもう一度味わって、書き残しておきたかった。

いずれにせよ、彼の音楽はほんとうに魅力的だ。

新曲 "ex-Doll" が世に出るその日を心待ちにしながら、"zOne" をはじめ高野洸の音楽とともにまた日々を過ごしていこうと思う。


12/29追記

"AT CITY" を知ってから聴く "zOne"

さて。

本記事を執筆して3週間後、わたしはやっと高野洸 2nd Live Tour "AT CITY" を知ることとなる。

それから数日後、改めて "zOne" を聴くとなんとまあその奥ゆきがまた広がっているではないか。

というのも "AT CITY" のバクステ映像で高野洸がくり返し口にしていた「不安」が、この "zOne" では見事に払拭されているようにも聴こえはしないだろうか。

そして、課題としていた「抜き方」が、「研ぎ澄まされた極限の集中状態」として表出しているようにも見えて、感慨深いものがあるのだ。


もちろん、こうしたディスコグラフィーに物語性などそもそもないのかもしれない。

それでも、こうして楽曲をたどることで、アーティスト・高野洸の成長・軌跡に思いを馳せずにいられない。

まあでも、ひとまずここまでにしよう。

少し考えすぎな気もする。


とにもかくにも、いつでも芳醇な音楽体験をありがとう、高野洸!


高野洸さんについての記事はこちらにまとめてあります。




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