星野源『光の跡』と見た月
2023年12月27日。
仕事帰りに、星野源の新曲『光の跡』を聴きながら車を走らせていた。
東の空には、今年一番なんじゃないかというくらいの、大きい満月が見えた。
車内に響く切ない旋律、心に流れ込んでくるやわらかな詞、遠くから差し込む月光、寒さを忘れゆく体温、楽曲とともに浮かんでは流れてゆく大切な人たちのまなざし、そのどれもが胸をいっぱいに満たした。
そして潤んだ瞳は対向車のライトを一層まぶしくし、さすがに車を停めて目を閉じて聴き入った。
今年はたくさんの別れがあって、そして出会いがあった。
自分で選んだものも、どうしようもなかったものも、そうなると分かっていたものも、予想外のものも、いろいろあった。
体感3年。
そんな今年もようやく終わりが見えてきた。
長かった。
『光の跡』。
聴いていると、なぜか涙がこぼれ、なぜかたくさんの人のことを思い出し、言葉が追いつけないほど鮮やかな心のゆらぎがあった。
それから何度も何度も『光の跡』を聴いては、ほどかれ、ゆるみ、何かがじわっと広がって、胸が満ちてゆくのを感じた。
無理に言葉にせず、自然と湧き上がるものをじっくりと待ってみては眺めて、ただそのゆらぎの中をたゆたった。
そうしてるうちに最初に浮かんだのは、
「どうしようもなく生きてる」
という感想だ。
『光の跡』の英題は "Why" だ。
歌詞に何度も「なぜ」が出てくる。
遠くのどこかの国のことも、この社会のことも、わたしの半径1m以内、自分自身のことですら、分からないことばかりだ。
それでも、ただ風が吹いて、光が差して、水面がたゆたって、終わって、出会って、つづいていく世界を、わたしはまちがいなく、どうしようもなく生きている。
この数年、ずっとじんわりしんどい感覚がある。
中でも今年の夏から秋ごろは、何度も生きることを諦めそうになった。
その中で、時に怒るように、時に絶望するように、時にあきらめるように、時にすがるように、時に責めるように、それでもいつも拭えぬ好奇心から「なぜ」と問いつづけていたように思う。
「なぜ」と問うてしまうのは、知りたいからだし、分かりたいからだ。
それこそが生命力ですらある気がした。
ままならないなりにも、どうしようもなく生きていきたいんだな、わたしは。
『光の跡』を聴いて、そう気づかされた。
わたしは「月」みたいな人間だと、他の記事に何度か書いてきた。
その感覚は、何年経っても変わらない。
そんなわたしの周りには、やっぱり「太陽」みたいな人たちがいる。
その人たちの「光」を受けて、わたしは自分の色形や輪郭がやっと分かるし、存在できている。
今わたしが歩んでいるこの人生も生きている世界も、誰かが放っている・放ち残してきた「光」の「跡」そのものだなと思った。
『光の跡』の感想は、まだまだ言葉が追いついていない。
少しずつ、少しずつ、追記していくつもりだ。
ただ現時点では、どう言い表しようもないくらい、わたしの生を肯定してくれている感覚がある。
そんな『光の跡』を聴きながら見た満月は、やたらとまぶしく見えた。
2023年もあと数日で満ちてはまた新しい年を迎えようとしている。
もう少し、がんばってみよう。