自己紹介① -お前誰やねん!
初めまして!私のnoteを読んでいただきありがとうございます。
株式会社ジーニーでPMM(プロダクトマーケティングマネージャー)を担当している水谷@ShoheiMizutaniと申します。
この記事では、簡単な自己紹介を書かせていただきます。
⚠️ちょいちょい垣間見えるオタク気質な部分が苦手な方は、ここでページを閉じてください。
なぜ私がマーケティングという仕事をするようになったのか?❶
私は初めから東京という土地で、マーケティングという仕事をやりたかったわけではなかったんです。むしろ、上京もしたくなかったw
「気づいたらそこに立っていた」
この表現が最も近いと思います。でも、今はとても好きな仕事だし、誇りももってやれてると思います。
自分が死んで、この世から痕跡がなくなっても私が生み出した価値の一片でも、未来のどこかの誰かにいい影響が与えられたらいいなと思って仕事をしています。
ここからは、私がマーケティングのお仕事をスタートさせ現在に至るまでの経緯を軽くお話しします。
①生まれ〜18歳で社会に出るまで
1989年に岐阜県関市(古くから豊富な水資源と、鉄がよく取れる山に囲まれた、鬼滅の刃に出てくるような刀鍛冶が多く住む場所だったらしい)に生まれ、
親の家系のルーツも、刀を研ぐ仕事から始まり江戸時代には御様御用(おためしごよう)と呼ばれる、死刑執行役もしくは、人や動物の死体を使って刀の切れ味を確認する仕事をしていたようでした。
※いきなり厨二臭全開の自己紹介すみません😅
そんな生まれからなのか、親は両方ハサミを扱う美容師だし、祖父はトヨタ自動車系列の会社で働きながら剣道の師範もやってました。(祖母は生まれた頃にすでに他界していましたし、両親は共働きだったので、幼少期はほぼ祖父に育てられました)
祖父の影響で小さな頃から、時代劇見せられてたし字を書くより早く、子供用の箒で素振りをさせられていたらしいです。(確かに、小学生に上がった頃には当時流行ってたるろうに剣心の牙突零式の真似を極めてた覚えあります…なんで危ない子供だ。)
高校に上がってからは、一変して舞台や音楽が好きになり、12年やってきた剣道をほっぽり出して高校の吹奏楽部に入り楽器をやり始めます。
最初は剣を捨てることに激怒していた祖父も、初めての定期演奏会にきて感動で昇天しそうになってからは、認めてくれるようになりました。
しかし、音楽をやるのは、楽器買ったりレッスン受けたり、遠征したりと何かとお金がかかりました。
私の通っていた高校は全国大会に出るくらいのガチな感じの部活だったので、休みも年間5日しかないから送り迎えも大変だし、毎月の部費も月3万円とかだったと思います。(今親になって、まじで両親への感謝が込み上げる…)
両親は自営で小さな美容室を経営していたのですが、田舎のちぃさな店舗だったので、毎月家計は火の車だったと思います。
子供の頃のおやつは、お味噌汁の出汁を取るためにかった煮干しをかじったり、市民農園の入り口にずっと立ってとれた野菜をご老人たちから恵んでもらって、近くの公園で水で洗って食べたりしてました。
中学2年生くらいになって、いつもお金のやりくりをしている親の姿を見ると罪悪感が半端なくて辛い時期がありました。
「自分が使うお金くらい自分でなんとかしたい。」
そんな気持ちから普通科ではなく商業科の学校を選び、卒業後は地元の製品パッケージ企画の会社へ就職しました。
②地元企業に就職し、大学生相手に焼肉マウントを取る日々
田舎の高卒採用の初任給は当時で手取り12.3万でしたがあの頃の私にとってはとても大きなお金で、やっと手にした自分のお金でした。
当時から陰キャだった私は、友達をご飯に誘う時も焼肉をフルで奢ってお金の無い学生相手に、しょうもないマウントを取るしか楽しみがなかったので、
酷く浪費を繰り返し、3年間社会人として仕事していても貯金は10万円もなく酷い時には、稼ぎ頭の母親から借金してなんとか過ごす日々でした。
今、この記事書いていて思いましたが、まじで、闇金ウシジマ君に出てくる債務者みたい…クズすぎて笑える😅
さて、そんな精神が子供のまま大人になった私でしたが、22歳の時に転機が訪れます。
祖父の死、母の脳出血、父のうつ病のトリプルコンボがわずか半年の間に襲いかかってきました。
この出来事が、私をマーケティングの道へ進ませてくれた神様からの贈り物だったのかもしれません。
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ここまで読んでいただき誠にありがとうございました!