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『ぼくの音楽人生』と『僕の音楽人生』:服部良一と日本のジャズ&ポップス

このマガジンでは基本的に音源に基づく音楽評をしているのだが、今回はある意味これは書評であると認めざるを得ない。私もかのNHKの朝ドラの『ブギウギ』に思い切りやられた一人なのだが、あのドラマのもう一人の主人公は紛れもなく草彅剛氏が演じた服部良一氏であった。その氏が残した本が『ぼくの音楽人生』という本なのだが、それと合わせて聞くと効果絶大というか効果倍増なのが今回紹介するCD3枚分に及ぶ傑作集『僕の音楽人生』である。

実は、この数か月ジャズというものについてあれこれ考えているのであるが、服部氏が影響を受けたのは、まさに「ブギウギ」がそうであるようにいわゆる「ビバップ」以前の「ジャズ」である。もっと言ってしまえば、おしゃれ且つ気軽に踊れる音楽という意味で「ジャズ」というものが流通していた時代の「ジャズ」である。「ジャズ」のなかでもそれは今となっては「スイングジャズ」あるいは単に「スイング」と呼ばれるジャンルである。そしてそれはある意味「流行歌」であった。それに対してその後の「ビバップ」はそれに異を唱える形で、ある意味アート、芸術としてジャズを進化させていったのであるが、しかし、ジャズの基本というか神髄はこのビバップ以前の時代にこそあるといっていいだろう。そう、ジャズはダンスミュージックにして流行歌(=ポップソング)なのである。そしてそれを日本という風土において(というかあまり褒められたことではないが戦中は今の中国東北部であるいわゆる「満州」や台湾も含めた東南アジアの一部も「日本」とされていた)十分に昇華させ、その後のアメリカのジャズの流れとはまた違う形で「日本の流行歌」「日本のポップス」として発展させたのが服部良一その人である。

この3枚組のアルバム、基本的には年代順に並んでいるのであるが、敢えて簡潔に整理すれば、1枚目が戦前、2枚目が戦中、3枚目が戦後となろう(もちろん多少のずれや重なりはあるが)。そして今の我々からすれば1枚目からがまずは驚きというか衝撃である。そう、服部氏は、それ以前の(と言うかほぼ同世代であるが)大作曲家先生である古賀政男氏や古関裕而氏がそうであったようにメロディの人ではない、基本的に編曲の人なのである。もちろん氏の数ある代表曲の一つである「蘇州夜曲」の美しいメロディラインに文句を唱える人はいないであろう。しかし、自らがジャズミュージシャンであることをその自我(=自分の拠り所)としていた(実際に楽団でのサックス奏者としてが氏のキャリアの出発点である)服部氏のリズムセンスと編曲センスは群を抜いている。日本の民謡というか童謡である「山寺の和尚さん」のジャズコーラス版などは最高というかもはや至高である。そしてその一方で淡谷のり子氏による一連のブルース作品もブルースの精神を日本に取り入れた傑作であると言えるし(今となっては「これがブルースなの?」と思わなくもないが、元々はソプラノ歌手だった淡谷氏に敢えて低音の歌を歌わせたところが凄い!)、その淡谷氏とトランぺッターである南里文雄氏の掛け合いが聴きどころの「私のトランペット」などは後の笠木シズ子氏とトランぺッター斉藤広義氏の傑作「ラッパと娘」に通じるところがある。そう、服部氏にとってはボーカル(歌)と演奏はどちらも同じぐらいに大切だったのである。そしてそれはまさにジャズの精神である。ジャズシンガーとはある意味「歌手」というよりも楽器、声による楽器なのであるから。

そんな服部氏もさすがに戦時中はやりたいことができず苦労したようではあるが(事実このCD集も2枚目はそれまでのジャズ要素が薄れている、が、それでも前述の「蘇州夜曲」などを戦中に残しているのは凄いというか氏の幅の広さを感じさせられる!)、それが爆発するのが戦後である。しかし、同時にそれはジャズのポップス化を意味してもいる。これは決してそれがいいか悪いかの問題ではないが、ジャズ本場とされるアメリカではジャズがポップスの方向ではなく、マニア向けの分かる人には分かる(同時に分からない人には分からなくてもいい)という方向(つまりは「ビバップ」からの「ハードビバップ」)に進んだのに対し、日本ではあくまでもジャズ=ブギウギとして、ポップス=流行歌として広まっていったのである。恐らく本場アメリカでの戦後のジャズの流れは、ジャズというものに憧れ、自分のものとし、その先をもしっかりと追っていた服部氏も当然意識していたであろう。しかし、服部氏はそれを十分に分かった上で、自分自身は自分自身が憧れた古き良きジャズの精神に従い、流行歌にジャズの要素、つまりはスイングとブギウギの要素を取り入れる方向に全力を注いだのである。そしてさらに作曲家としての名声と地位と収入を得てからは自分自身は交響曲に代表されるオーケストライゼイショーンという、オペラ、クラシック的な方向にも進んでいったのであるから恐るべしである。

と、まあ、とにかく、今の時代に音楽、特に日本の音楽を評論しようというような人には読んでもらいたい本であるし、聞いてもらいたい音源である。今の音楽(流行歌)のアレンジもここにそのすべてがあるといっても過言ではないであろう。音楽は単にメロディではない、ハーモニーでありリズムであるということを服部氏は我々日本人に示してくれた、というか改めて確認させてくれたのである。そして併せて読んでもらいたいのが服部氏と同時代を生きたジャズ評論家である瀬川昌久氏が書いた『ジャズで踊って 舶来音楽芸能誌』とその瀬川氏とあの我らが「Jazz Dommunistars」のメンバーでもある大谷能生氏との対談本である『日本ジャズの誕生』である。これを読むと、戦争がなかったら日本の音楽シーンもまた変わっていただろうと思わざるを得ないだろう。そう、明らかに一時代、まさにジャズは文化であると同時に流行の最先端だったのである。そして戦中においてそれが空洞化した。戦後はその空白の時代の取戻しであったも言えるが、同時にジャズというもの自体が多様化し、服部氏のように「流行歌」に進むものもいたが、そうではなく、つまりは「歌」ではなく「音」の方に向かったものもいた時代でもある。そしてその「音」方向の流れは後のYMOなどにも通じるし(事実初期のYMOはジャズフュージョンという扱いをされていた)服部氏の流れは後のJ-POPと言われるムーブメントへと展開していった。欧米の戦後の「流行歌」即ちポップスはビートルズによりある意味リセットされ、その影響を受けたものによって発展してきた。日本でももちろんその影響はあったが、それはいわゆるバンドブームまでであったとも言えよう(80年代のバンドブーム以前の60-70年代のいわゆるGS(グループサウンズ)も含む)。J-Popはむしろバンド系ではなく、服部良一のオールドジャズ系、ダンスミュージックにして流行歌であった頃のジャズの流れを受けているのである。90年代を代表するいわゆる小室サウンドにはもちろんYMOからの影響も感じられるが、先にも述べたようにそもそもそのYMO自体が、Jazz的なものを電子音でやっていたのである。そしてそれ故に無国籍音楽であり、だからこそYMOもJ-Popもアジア各国をはじめとした海外でも受け入れられたと言える。いまではK-POPがその地位を担っているが、しかし一時期だったかもしれないが、確かにJ-POPがその位置を担っていた時代はあった。服部氏はそれを見ることなく亡くなっているが、しかし、それを見たとしても全く焦ることはなかっただろうし、むしろ感じたのは達成感であろう。メロディーではなく編曲が、サウンドが重視される時代が来たのだから。そしてその時代は少なくとも日本では今でも続いているのであるし、世界もまたその方向に来ているように思われる。


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