54. もう一人の伝説の歌姫、「ちあきなおみ」という歌い手/演じ手、そして「楽器」
前回は、故、八代亜紀氏への私なりの追悼記事を書いたが、もう一人、事実上の引退というか身を引く形で表舞台から去ったどんなジャンルでも歌える歌手の中の歌手としてちあきなおみ氏を忘れてはいけない(というか本人として見れば、むしろもはや忘れてもらいたいのかもしれないが、本人の想いを尊重するのと同様に、我々ファンは、我々自身の想いをも尊重しなければならない。我々がある人物のファンであるということは、我々自身がその人のファンである我々自身を愛し、肯定できるということなのだから)。
今回紹介したいのは、そのちあき氏が、結婚を機に、忙しい芸能生活から一歩引く形でコロンビアからビクターに移籍した時期に発表された、アルバム3枚、『それぞれのテーブル』(1981)『THREE HUNDRED CLUB』(1982)『待夢』(1983)である。これらのアルバム、タイトルも三者三様であるが、中身も三者三様である(と同時に一貫性もある)。そしてそのいずれも素晴らしい。
まず、『それぞれのテーブル』。これはちあきなおみ氏による「シャンソン」のアルバム、とされている。といってもすべて日本語で歌っているので、一見(一聴)これがシャンソンなの?とも思うが、シャンソンとは本来フランス語で「歌」の意味なので、決して間違いではない。そう「歌」、ちあきなおみ氏を一言で表すとまさに「歌」の人なのである。彼女はミュージシャン、アーティストというよりも、まさに歌の人という意味で歌手であり歌い手である。彼女は歌うことによって表現するし、演じるのである。彼女はいわゆる演歌も歌うが、彼女の場合、演歌とは「演じる歌」なのである。
しかし、このアルバムにおいて彼女は敢えてそれほど「演じて」はいない。もちろん歌い方の様々なテクニックは駆使というかさりげなく披露しているが、むしろ自分の素で歌っている印象を受ける。これはそれまでの「演じて」きた歌い方に対するある意味反動なのかもしれない。もちろん代表曲である「喝采」(1972)や隠れた代表曲と言われる「ねえあんた」(1974)や「夜に急ぐ人」(1977)などはその「演じる」魅力が炸裂しており、それはそれで魅力的なのだが、この落ち着いたリラックスした感じもまた魅力的である。何度もCMで起用されている「黄昏のビギン」(1991)なんかもその一例であろう。彼女のオリジナルではなくいわゆるカバーソングであるが、彼女のカバーバージョンがやはり最高なのである。
次に『THREE HUNDRED CLUB』。これも一応「ジャズ」のアルバムと謳われているが、聞いてみれば分かるように現代風のポップス、もっと言えばシティ・ポップのアルバムと言っても過言ではない。前作のシャンソン風味も残っており、フレンチ・ポップという言い方もできよう。ここでのちあき氏は、まさにポップである。前作『それぞれのテーブル』でもその要素は見られたが、あくまで「シャンソン」を謳っていたためポップ要素は「つかみ」的に使われているに過ぎなかったが、今回はその「ポップ要素」を前面に出してきた。とにかくお洒落でカッコいい。今聞いても全く古くないし、むしろ新しい印象である。今の時代に、誰かに是非カバーしてもらいたいアルバムであるが、その誰かが思いつかない。やはり、ちあきなおみにはちあきなおみにしか出せない何かがあるのである。
そして最後の3枚目が、傑作『待夢』(「タイム」と読ませる)である。これはポルトガルで「ファド」と呼ばれる、アメリカ南部でいうところの「ブルーズ」日本で言うところの「演歌」に近いものである。もちろん「演歌」といってもいろいろなものがあるが、「情」(「なさけ」ではなく「じょう」)を歌い上げるタイプの演歌、言ってみれば「情歌」である。「ファド」とは、そもそもは「運命」「宿命」を意味するポルトガル語だそうで、運命を受け入れざるを得ない人の情=想いを歌い上げるジャンルである。そしてそれ(情を歌い上げること、演じ上げること)はある意味ちあきなおみ氏の真骨頂でもある。しかし、恐らく以前の(70年代の)ちあきなおみ氏なら思いっきり歌い上げた/演じ上げたであろうが、ここでは前2作同様、むしろ抑えて歌い上げている。しかし、その抑えた中にもやはりちあき節というか、彼女ならではの迫力がある。いろいろな歌を歌ってきたちあき氏だが、それらを経てきた結果「ファド」というジャンルに巡り合ったのも、これもまた運命であり宿命だったのだろう。しかし、このアルバムを「ファド」というジャンルに括ってしまうのは個人的には反対でもある。ここにはいわゆる「演歌」もあるし「シャンソン」もあるし、「ジャズ」や「ブルーズ」もあるのだから。そしてそのようないわゆる「ジャンル」を超えた歌い手がちあきなおみ氏なのだから。
音楽のルーツがどこにあるのか、音楽、歌というものはいつ、どこで生まれたのかは興味深い謎だが、ヒトと猿の違いは言葉でのコミュニケーションができるかどうか、という点にあることは間違いない。しかし、どうしても言葉にできない思い、言葉にならない「情」というものが人には(というか人にも)ある。そして/しかし、ヒトがヒトである以上、ヒトはそれを「言葉」で表現しなければならない。私見ではあるが、その時に生まれたのが「歌」というものなのではないだろうか。なので、洋の東西、どこにいっても、やはり同じように「情」を歌う歌のジャンルというものは存在するのである。そしてその歌は言語の種類を超えても「ヒト」には伝わるのである。
「情」が「情」であるためには、そしてそれを他のヒト(=他者)に伝えるには、演じすぎてもいけないし、演じることを拒否してもいけないし、また同時に演じすぎることも必要だし、演じないことも必要となってくる。その微妙なラインに到達しているのがこのアルバムであり、それこそがちあきなおみ氏流の「ファド」であり「演じる歌」と言う意味での「演歌」であると言えよう。事実、このアルバムは日本語が分からない本場ポルトガルのファド歌手たちからも絶賛されたそうである。前回、八代亜紀氏を評した時に、八代亜紀は八代亜紀というジャンルだ、という言い方をしたが、それに倣えば、ちあきなおみ氏は「ジャンル」を超えた歌い手であり、その意味で、もはやちあきなおみという楽器だ、という言い方もできよう。その声、その歌い方、その空気の振るわせ方、その演じ方(=演奏の仕方)、これが彼女の魅力であり(もちろんその魅力は彼女の歌い手としてのキャリアを通じて培われてきたものである)、だからこそ何を謳っても名曲となるのである。