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映画代2000円、飲食代6000円。それでいい、それがいい。『劇映画 孤独のグルメ』を見てきた!

話題の、というか賛否両論ある『劇映画 孤独のグルメ』を見てきた。そして十分に楽しんだ。そう、多くの人が勘違いしているようだが、これは決して『劇場版 孤独のグルメ』ではなく、あくまで『劇映画 孤独のグルメ』なのである。よって、テレビ版の延長戦を期待してきた人にとってはたしかに「ちょっと違う」「いつもの『孤独のグルメ』ではない」と思われるだろう。しかし、「劇映画」であれば、これは全然「あり」である。

テレビ版『孤独のグルメ』の主役は登場するお店でありそこでの料理であるのに対し、これは五郎さんこと我らが井之頭五郎氏を主役とした「劇映画」である。つまり五郎さんが五郎さんを演じているとも言えるし、もはや我々の頭の中では五郎さん=松重豊氏であるのだから、松重豊氏が五郎さんを演じている映画、とみることもできる。そう、テレビ版『孤独のグルメ』では松重豊氏は五郎さんを演じているというよりも、彼自身がまさに井之頭五郎その人なのである。我々はそこに松重豊という俳優を見るのではなく井之頭五郎その人を見ている。しかし、この「劇映画」ではそうではない。我々はここではむしろ松重豊演じる井之頭五郎を見ることができる。これはまさに『孤独のグルメ』のセリフを借りれば、「なるほど、そう来たか」であるし「うん、これもありだな」である。そしてそのような「裏メニュー」的なことができるのは、というかそれが許されるのは、井之頭五郎自身である松重豊氏自身が監督しているからであろう。当事者自身というか本人自身がテレビ版『孤独のグルメ』をメタ視点から「劇映画」化した作品である(そして事実、映画中に『孤独のグルメ』のパロディとしか言えない作品も出てくる)。

ということでこの「劇映画」では、実在するお店はほとんど登場しない(もしかしたらパリの街角で出てくるレストランは実在しているのかもしれないが)。つまり、テレビ版の『孤独のグルメ』があくまでセミフィクション(お店と料理は「ノンフィクション」として実在する)とすると、こちらは「あくまでフィクションですよ」ということをそのような形でもアピールしている。よってテレビ版のようにお店と料理がこの「映画」を引っ張るのではなく「ストーリー」がこの映画を引っ張ることとなる。そして、そのストーリーの裏テーマとしてあるのが「コロナ禍の飲食業界」であることに、我々観客は泣かされる。日本中がコロナ禍に見舞われた2020年、『孤独のグルメ』のレギュラーシリーズは撮影、放映されなかった。この間、そしていわゆるその後の「コロナ明け」と言われるまでの期間、実際に多くの個人営業のところは泣く泣く店をたたまざるを得なかった状況にあったであろう。中には過去に『孤独のグルメ』で取り上げられた店もあったはずである。しかし、敢えて厳しいことを言うようであるが、それが「人生」でもある。自分の意志や行動だけではどうすることもできないことがあるのが「人生」である。そしてこの『劇映画 孤独のグルメ』では、まさにその「人生」を描いている。というか、我々が「映画」に惹かれるのは、そこには「人生」が描かれているからである。いや、それは決して「映画」だけの話ではない。小説もそうであるし、マンガやアニメもそうであるし、舞台もそうであるし、すべての「フィクション」がそうである。そしてここではその「フィクション」を「劇」という言い方で表している。「劇映画」と敢えて名乗って(打って)いるのはそのような想いがあるからと言っていいであろう。

ということで、私事ではあるが、この映画を十分に楽しんだ後で、「お腹空いたでしょ」という劇中の五郎さんのセリフ通りに、映画館の近くにある居酒屋へと足を運んだ。『孤独のグルメ』の五郎さんは下戸という設定ではあるが、私は呑む人である。結果的に十分孤独での飲み食いを楽しんだ後のお会計は6000円を超えたが、それでよいし、これでいいのである。飲み食いにお金を落とさないで、なんの「人生」だろうか。自分自身ではどうしようもない何らかのことで「人生」を経験する人がいるのであれば、それがたとえ一瞬かもしれないが素敵な時間、自分自身が満足し楽しめる時間を過ごすのもまた「人生」である。

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