これぞ映画!これぞ人生!長塚京三主演、吉田大八監督、筒井康隆原作『敵』を見てきた!
まあ、凄い!まあ、やられた!映画館で見てよかった!そんな映画が今回紹介する長塚京三主演、吉田大八監督、筒井康隆原作の『敵』である。
一言で言うと「老人映画」ではある。あの隠れた名作『ザ・高校教師』の長塚恭三氏が老人役をやるようになったのかというとどうしても私も年を取ったな、と思わざるを得ないのであるが、まあ、歳をとるのも捨てたことではない、とも思わせてくれる映画でもある。虚と実、なにが虚で、なにが実なのかを問い詰めてくるこの映画であるが、おそらく人間というものはその危ういバランスの上で成り立っている生き物なのであろう。「虚」というものを人間が頭の中、つまりは脳内で作り出すイメージと捉えれば、人間の情報処理はそのすべてを脳に頼っているという意味でこの世界は『マトリックス』が描いたようにすべてが「虚」である。しかし、人間の肉体性、人間の物質性に重きを置けば、この世は確かに存在するものとしての「実」である。たとえ、我々が見たり聞いたり触ったりするのはすべて脳内イメージとしての「虚」であるとしても、そこに物質としての実態、があると仮定すれば、それは、その対象は少なくとも「実」であるからである。そしていわゆる「科学」というものはその「物質性」「事実性」を問い続けることで成立してきた。カメラに映る、人間の目ではないカメラにもそれは映し出せる、という現象もある意味その「物質性」を補強するのに役立ってきた。だから我々は映画を一種の「現実」として見ることができるのである。しかし、人の認識の世界、別の言い方をすれば「哲学」の世界ではそれはまた別の話である。あなたが「物質」だと思っていること自体が脳内イメージによる錯覚なのではないか、と問い続けるのが哲学であるとすればそれがカメラに実際に写っているかどうかはもはや問題ではない。問題なのはカメラに写ったとされる何ものかを人はどう認識するか、という点に置かれるのだから。
恐らく、というか絶対的に、この問題について決着をつけることは少なくとも今現在の「科学」及び「哲学」では無理であろう。であれば、我々はその「間」をあるいはその「重なり」を生きるしかない。そしてその「間」にして「重なり」を見事に形にしてくれるのが「映画」なのである。「映画」はドキュメンタリーと言われる分野がまさにそれを代表するように、カメラに映るものは「現実」である、という立場を取ってきた。しかし、一方では「カメラに写っているからと言ってそれが現実とは限らない」ということも同時に「映画」という表現手段ができた時からそれを示し続けてきた。そう映画が好んで「夢」を扱うのはそれ故にである。逆の言い方をすれば我々が寝ている時に見ている「夢」は映画というものができたからこそ「映像」として認識されたのである。その意味で「映画」とはまさに「イメージ」であり、同時に「イメージ」というものを映像化したものがまさに「映画」なのである。その意味では「映画」というものは人の「イメージ」というものをうまく映像に置き換えることによって発展してきたと言えよう。
そしてこの『敵』も言ってみればその手の映画である。一番単純に考えれば、ここで描かれているものは死期が近づいて意識が混濁してきた者にとっての「意識」というものを「夢」を用いながら描いていると言えよう。そしてそれはこの映画を見ている我々にも十分に伝わる。つまり、我々にはそのような「混濁した意識」をも「映像」、あるいは「夢」という形で通して認識し受容できる。逆にいればそこに我々なりの「意識」というものがあるからこそ、我々はこの映画に何らかの「ずれ」や「違和感」をも感じることができるのである。そしてそれこそが、我々人間が持っている「能力」である。事実、この映画は「何かがおかしい。何かが変。」と思わせてくれること自体がその作品としての魅力になっている。つまり、我々はその「おかしさ」や「変さ」というものも楽しめるのである。我々には少なくともそのような「意識」があるのである。そしてそれを利用しているのが「映画」のマジックであり、そのような映画さえ楽しめるのが、人間が生きているという意味での「人生」のマジックなのである。
「人生」はいわゆる「胡蝶の夢」なのかもしれない。しかし、たとえそうであったとしても、我々はその中で生きているし、その中で生きる意味を見出している。それを「無意味だ」と笑えるのは神の視点に立った時のみであろう。たとえそれが夢だとしても、たとえそれが幻だとしても、我々はその中で生きるしかない。そして生きるということは恥をかくということでもあり、間違いを犯す、ということでもあり、後悔する、ということでもある。そう、それが夢であれば、それが幻であれば、それに対して恥じたり後悔したりする必要はない。恥じるからこそ、後悔するからこそ、間違いを犯すからこそ我々は生きているのである。たとえそれが「胡蝶の夢」の中であったとしても、我々はそこに生きており、そこに生きた痕跡を残せるのである。そう、問題はもはやそれが現実かどうかなのではない。そこにおいて我々はどう生きるか、どう人生を過ごすかなのである。そして人生を過ごすということはけっして楽しく悔いのない人生を送ることでは当然ない。悔いがあってこそ、後悔があってこそ、恥ずかしい思いをしてこその人生なのである。その意味でこの映画はまさに人生賛歌である。公開や失敗や恥を含めて人生をまっとうに生きた人、そしてこれから生きようとする人への尊敬と尊厳に満ちた作品である。