SF論:小説『三体』における三態とそのメカニズム(2)
2.唯物論と唯心論、その両立としてのSF小説
このように『三体』においては、科学とは、思想とは、その両者のあるべき関係とは、というテーマがまず初めに、しかも真正面から提示されている。その直球さが『三体』が「本格」SF小説として高く評価されている理由の一つでもあろう。そして興味深いのは、というか後に述べるようにSF小説というその性格上、当たり前と言えば当たり前のことなのではあるが、『三体』自体が「唯物論」的な小説、つまりは「科学」的な小説であるとともに、それが「小説」であるが故に「唯心論」的な要素、つまりは「思想」も含む人の「心」をも扱っているものとなっているという事実である。もちろん、それが「中国発」の小説であるという決定的な事実も、この興味深さを深めている。件の物理学教授と紅衛兵の間で交わされた「思想が実験を導くべきか、それとも実験が思考を導くべきか?」という問いは、つまりは「唯心論であるべきか唯物論であるべきか」であり、中国という共産主義国家は「唯物論」を前提としている国家である(理論的、理念的にはそうでなければならない)からである。
しかしおそらく現代中国においては(そしておそらく世界的にも)、この問い(「唯心論であるべきか唯物論であるべきか」)はもはや問われるべき問い、あるいは議論のテーマとして取り上げられる類の問いではないであろう。『三体』においても、先に述べたシーンの後、若すぎるが故にこのような論議にはついていくことができず、しかし若いからこそ自分の思想や行動に疑いを持つこともできない紅衛兵の少女(なんと、まだ中学生!)たちが、まさに自分が理想とする正しい紅衛兵であろうとするが故に、その物理学教授をベルトを振り回して打ち据えた末、最終的には殺害にまで至ってしまったように(つまりは唯物論を掲げながらも結局は唯心論的な(感情的な)行動しかできなかったように)、もともと政治権力争いとしての側面が強かった文化大革命は、思想運動、あるいは科学としての弁証法的唯物論の探求という方向よりも、革命という名目の下での感情的で暴力的な行為へ、つまりは唯心論の対象である「心」の暴走行為へとエスカレートしていってしまったからである。
今では文化大革命(以下「文革」)はいわゆる黒歴史として、中国の近代史の1ページに収められて(押さえ込まれてしまって)いる。そしてそれが黒歴史であるからこそ(黒塗りされてしまっているからこそ)それが振り返られることも少ない。先に、「過去におけるその思想や運動が良い結果を招いたとは言い切れず、むしろ悲劇を招いたことも多々あった」と述べたが、文革がまさにその悲劇の例である 。この悲劇は、可能性としてはありえた唯心論と唯物論の関係性やつながりについての更なる議論、または「科学(サイエンス)としての弁証法的唯物論の探求」といった方向への議論や考察というものも押しつぶしてしまった。そしてその後、中国指導部(=中国共産党)の手により進められた改革開放路線や市場経済の導入などの結果、中国での共産主義は、思想(あるいは理論、あるいは科学)としての発展の方向ではなく、政治システム、統治制度として、その発展の歩みを進めていった、大雑把ではあるが中国における文化大革命とその後の展開はこのようにまとめられよう。
そしてそんなときに、文革のことやその時に唱えられていた思想のことなど、多くの人が忘れかけていたときに、歴史的文脈、政治的文脈、思想的文脈からは全く別の文脈から、しかもSF小説という意外なところから発表されたのがこの『三体』である。今の時代に(あるいは文革がある程度の十分な過去となったからこその今なのかもしれないが)、敢えて「唯心論か、唯物論か」「科学としての弁証法的唯物論とは」という問いを冒頭の場面で提示しているのは、SF小説の定番の一つでもある「ありえたかもしれない未来」「可能性、並行世界としてのもう一つの未来」を描いてみようとする試みなのだろうか。失われてしまった議論、「唯心論か、唯物論か」「科学としての弁証法的唯物論とは」といった議論を、SF小説という一種のシミュレーションの中で再び試みようとしているようにも思える。
『三体』を読まれた方は既にご存じのように、そして未読の方にもネタバレとならない程度に小説上の事実関係を明かせば、先に述べた殺害された物理学教授の娘が、『三体』という物語のその後の中心人物(直接的な「主人公」ではないとしても「中心」の人物)となってくる。当然、彼女にとって文革はなかったことにされた(されようとしている)黒歴史ではない。忘れようにも忘れられないものであり、自らの積極的な意思ではなかったとしても、結果として天文観測所(表向きは)の研究員となり、そして名誉回復後は父と同じく大学教授の道に進むことのできた彼女にとっては、自分の専門であり、自分が自分であることの証明でもある天文物理学という科学(唯物論的存在)と、しかし、いくら仕事に打ち込んでも沸き起こってくる何とも押さえられぬ思い(唯心論的存在)とをどうしたら結びつけることができるか、が大きなテーマとなってくる。そして、ある偶然的な出来事がきっかけで、その結び付け方、解決の仕方、とでも言えるようなものを見つけた時に、そしてそれに対して彼女が決心を以ってある行動に及んだ時に、この『三体』も本格SF小説として宇宙規模で大きく動き出す。
このような点で、『三体』は、「科学」(唯物論)としては天文物理学を中心とした諸科学を巡る小説であると同時に、「心」(唯心論)としては文化大革命により父親を殺された娘の復讐譚としても読み進めることが可能なものである。そしてその意味で先にも述べたように、『三体』自体が内容的にも、そして形式的にも唯物論的な、即ち科学的な小説であるとともに唯心論的な小説となっている。そしてこれも先に述べたように、SF小説というジャンル自体が、そもそも科学(サイエンス)とお話し(フィクション)という唯物論的なものと唯心論的なもの、このある意味相対立する、相矛盾するものとが内包されているものなのである。
SF小説というものが、あるいはSFというジャンルが、既にしっかりと確立し、広く流通している現在、このような当たり前ではあるが改めて考えてみれば不思議なことに我々読者が気づくことは少ない。このような不思議な事実に気づかされるのは(思い至ることができるのは)、『三体』のような本格的なSF小説に改めて対峙した時である。
ゲームクリエーターの小島秀夫は『三体』単行本の帯において「本作は、中国で生まれた突然変異ではない。普遍性と、娯楽性、そして文学性の、まさに「三体」の重力バランスの絶妙なるラグランジェ点でこそ生まれた、奇跡の「超トンデモSF」だ」という賛辞を送っている。小説『三体』は「三体問題」と呼ばれる宇宙空間で質量を持った3つの物質がお互いの引力で相互作用し合う際の動き、が、そのタイトルであると同時に物語の進行の原動力となっている。なお、「ラグランジェ点」とは天体と天体の重量で釣り合いがとれるポイントのことで、「三体問題」の一つの特殊解である(しかし、三体問題には基本的には解はなく、その3つの物質の動きを正確に予測することはできない)。
小島の言葉を借りれば、彼の言うところの「超トンデモ」こそが筆者の言うところの「本格」ということになる。そして小島はこの「超トンデモ」の背景には「普遍性と、娯楽性、そして文学性の、まさに「三体」の重力バランス」があると指摘しているが、それは筆者の言葉で言えば、「「科学(サイエンス)とお話し(フィクション)という唯物論的なものと唯心論的なもの」「ある意味相対立する、相矛盾するもの」のバランス」、ということになる。そしてそのバランスを取り得ている「ラグランジェ点」こそが、筆者の言う「当たり前ではあるがよく考えてみれば不思議なこと」であり、そここそがSF小説の魅力の源として、もう少し深堀りしてみる価値のあるポイント(点)である。