42.解体しているのかいないのかが定かではないが故の名盤としての阿部薫+高柳昌行『解体的交感』
前回、私なりの坂本龍一氏の追悼文をここにアップしましたたが、音源こそ残っていないものの(どこかにはあることを期待しています!)坂本氏は阿部薫氏との接点があり、セッションしていた頃の喜びと言うか感動をいくつかの媒体で語っています。音楽理論を知り尽くした教授こと坂本龍一氏と、教育・教養としての音楽ではなくまさに我流、我が道を行くといった阿部薫氏とがセッションしていたという事実自体が興味深いのですが、その阿部薫氏がフリージャズギタリストとの高柳昌行氏と共演したこれまた貴重な音源がこの『解体的交感』です。
坂本氏も述べているように、我流ながら阿部薫はデリタなども読み、そのエッセンスを理解していた人です。その意味ではここでの「解体的」(「解体」自体ではなく「解体的」)は「ディコンストラクション(脱構築)」と読み替えて差し支えないでしょう。事実、ギターの高柳氏の演奏とはある意味「交感」していないと同時に、見事に「交感」しています。そう、ここで行われていることははあくまで「解体」ではなく「解体的」なのです。そしてそこにこそこの演奏の、この録音の「肝」があります。
「ディコンストラクション(脱構築)」とはシンプルに言えば、二項対立の階層秩序を打破し、ずらし、差異を生み出し続けることです。そして確かにこの『解体的交感』では、高柳氏によるギターの演奏と、阿部氏によるサックス(そしてそれ以外の楽器)の演奏がある意味見事にずらされています(本来両者をつなぐべきであるビート=ドラムが敢えて存在しないことに注目!)。ここで追及されているのは決して「ハーモニー」などではありません。むしろ「ずれ」でありその「ずれ」故に生じる「違和感」であり、言い換えればそれこそが「ノイズ」なのです。
しかし、これが「いわゆる正統的な意味での音楽ではない」か、といえばそうは言いきれないでしょう。そう、ここでは、いわゆる「ノイズ」と言われるジャンルがそうであるように、「音楽」が「音楽」である絶妙のラインがキープされています。だからこそこれは「解体」ではなく「解体的」なのです。
と、話が行ったり来たりしてしまっていますが、とにかくここで言いたいこと、ここで言えること、は、これこそが「ディコンストラクション(脱構築)」である、ということです。ビートがないこと、ハーモニーがないこと、メロディ(旋律)がないこと、これらは既にフリージャズの時代で模索され提示されていました。しかしそれは「反構築」であり、「脱構築」ではありません。もちろん「反構築」が「脱構築」に通じることはあるでしょう。しかしそれは「反」に対する「元」があるが故の「反構築」であり「脱構築」なのです。本来の「脱構築」はそのような「元」と「反」と言ったような二項対立からも逃げ続けること、逸脱し続けることです。しかし、それが難しい。なぜなら、あるコード(規律)から我々が抜けだされるのは、そのコード(規律)に反するものを我々が構築し得た場合であるからです。しかし「脱構築」はそうではない。「正と反」といった二元対立こそがそこでは避けられるべきものなのです。
つまり、そうなるともはやそれは計算や戦略では克服でき得ない課題となります。そしてここでこそ人間の肉体性というものが改めて注目されてきます。恐らく、坂本龍一氏はその肉体性を電子音を使うこと、機械化することで何とか消そうとした人でしょう。一方、阿部薫、高柳昌行といったフリージャズ、即興音楽、ノイズ系の人々はその肉体性こそを計算や戦略といったものを克服する手段として前面に出したのでしょう。そしてこのアルバムにおいてはそれは成功しています。そのためには、機械的ではなく肉体的であるためには、ある種の偶然や奇跡がそこには働いたのかもしれませんし、働かなければなりませんが(逆に言えば「機械系」は偶然や奇跡性さえも計算であり、それ故にそれは偶然でも奇跡でもない)、確かにそれは成功しています。そう、それこそがこのアルバムのタイトルでもある『絶対的交感』なのです。そこには当然「機械的」でこそないとしても計算といったものもあるでしょう。しかしその結果はその計算を超えるものとなっています。この事実自体がすごいことですし、だからこそ音楽は音楽(計算できそうで計算できないもの)なのです!
と、とにかく偶然と奇跡としか言いようがないものなのかもしれませんが、これは名盤ですし、このような音源が残され発表されたことには敬意の年しかありません。是非、お聴きください。人によっては、「いやいや、これは計算でしょ」、あるいは「いやいやこれはでたらめにやったが故の結果でしょ」と言う人もいるかもしれませんが、であれば、どこがどのように計算されているのか、どこがでたらめなのかを示してみてください。そんな課題を、我々に与える/与えてしまうのがこのアルバムであり、それこそがこのアルバムが名盤であることの証なのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?