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「女なんかよりも男こそスカートをはくべき!」という男性のための女装のススメ

「男はスカートをはいてはいけないのか?」

先日、男性の女装について批判的な記事を書いた直後に
目に飛び込んできたタイトルに、
「この本は読まなければならない」と思い、
ドキドキしながら読みました。

正直、予想していた通りの、酷い主張の本でした。
資料としてよくまとめられているなと思う部分はありました。
しかし、本全体の主張が酷い。

この本のタイトルは、
その趣旨を率直に伝えようとするならば
以下の通りになると思います。

男性優遇キャリコン視点のジェンダー論
「女なんかよりも男こそスカートをはくべき!」

本の実際のタイトルである
「男はスカートをはいてはいけないのか?」
という問いに対する結論は
89ページに以下のように書かれています。

女装(異性装)をしてはいけない理由はない

結論からいえば、女装(異性装)をしてはいけない理由はまったく見当たりません。

P.89

この本は、初めからこの結論ありきの本であり
実際にその問題性について、批判的な考察は何一つせず、
女装を希望する男性にとって都合のよい、
肯定的な意見・主張・データしか書かれていません。

ですから先程述べたように、本のタイトルは
「男はスカートをはいてはいけないのか?」
などという問いの形ではなく、潔く
「男はスカートをはくべき!」
という主張にしたらよい
と思うのです。

私自身は、男性の女装の問題性について、
その背景に「女性差別」、ミソジニー(女性蔑視)があるということを
前回の記事で書きました。

この本には、全体を通して「女性差別」についての理解が感じられません。
男性と女性、「男らしさ」と「女らしさ」、
また「男性の女装」と「女性の男装」というものを、
対等で対称なものとして捉えています。

そのようにして、男性から女性への力関係・差別の構造を理解せず、
「女性差別」の問題を軽視しているばかりか、
むしろ、ミソジニー(女性蔑視)を感じさせる文章が散見されるのです。

それゆえ私は、この本の著者は
男性優遇キャリコン」であり
この本の主張は
「男はスカートをはくべき!」に留まらない
女なんかよりも男こそスカートをはくべき!
という、ミソジニー(女性蔑視)を含んだ主張なのだと理解しました。

私の結論

結論からいえば、男性の女装(男性が「女を装う」こと)は、
まさにこの本の主張のようなミソジニー(女性蔑視)を維持・助長し、
真の男女平等や、女性の権利の尊重を妨げる不適切な行為です。

男性がスカートを履くことは、
そこに「女を装う」という意味合いが伴うならば、
単なるファッションではなく、ミソジニー(女性蔑視)を含むものとなる

ということ。
そのことの問題性については、
きちんと指摘され、批判されるべきことがらであると考えます。

詳しくは、前回の記事をお読みいただければ幸いです。

以下、この本に散見されるミソジニー(女性蔑視)と、
「女性差別」を軽視していると思われた部分を指摘していきます。

本の中のミソジニー(女性蔑視)と「女性差別」の軽視

「男らしさ」や「女らしさ」が社会的に権力性なり支配性を帯びている

P.42

→「男らしさ」「女らしさ」それは決して対等・対称なものではない。
 男性から女性への権力性、支配性、その「差別」の構造を無視している。

メイクをして美しくなるのも自由。
ノーメイクで自分らしく生きるのも自由。
社会的に強制されない女らしさ(男らしさ)を。

P.42

→「美」という価値観について、
 女性が自由を得ることが難しいのは「女性差別」ゆえ。
 男性には選択の自由があるが、女性には選択の自由がない。
 参考:シーラ・ジェフリーズ『美とミソジニー』

男女の非対称性もそれ自体が永久不滅の原理ではなく1つのバロメーターに過ぎない

P.50

→「女性差別」の現実を軽視している。
 また、男性と女性の身体性における差異と、
 それによる非対称性の問題についても矮小化している。

女性の振り袖は「差別」でもあり「特権」でもある

P.51

→女性に押し付けられている「美」「女性差別」について「特権」と言い、
 男女の非対称性、「女性差別」の問題を軽視している。

男性=スタンダード、女性=特殊という性別役割分担(意識)が揺らぎつつある

P.53

→そこにあるのは「女性差別」であり、
 「役割分担(意識)」などというものではない。

よく男性がメイクするのは気持ち悪いとか、骨格や雰囲気が合わないから女性の服装を着てはいけないという“常識”を述べる人がいます。

P.57

→そこにあるのは「常識」ではなく
 「女性差別」意識、ミソジニー(女性蔑視)。
 男が「まるで女でもあるかのように」メイクするのは気持ち悪い
 というミソジニー(女性蔑視)。

純粋にファッションについて……
昔から女性がメンズ服を着ることには抵抗感はなく、世間も自由なファッション表現だとみなす傾向が強かったと思います。

P.59

→そんなことはない。
 多くの女性はたえず、女性らしい、
 男性から見て性的な服装をすることを求められている。

女性だからという理由で就けない仕事や地位はないし、男性だからという理由でできない服装やファッションはない

P.67

→実際に、女性だからという理由で就けない仕事や地位がある。
 試験・採用における不正、職場における「ガラスの天井」。
 法制度が整備されてもなお、無くならない「女性差別」がある。

戦国時代には討ち取った敵方の大将の首級に化粧を施すことで、勝者が敗者を威圧したり軽蔑する意思を表現しました。

P.87

→そこにある女性的美、女性に対する蔑視、
 ミソジニー(女性蔑視)についての指摘がない。

明治時代には軍国主義の潮流の中で男性と女性の社会的な役割分担が明確にされる中でいわゆる「異性装禁止令」発布され、女装自体が反社会的な行為だと認知されるようになります。

P.88

→明治の法律「違式詿違条例(いしきかいいじょうれい)」
 についての不正確な情報。
 内容をよく読むと実際は、例外として
 男性による歌舞伎における女装は許されていて、
 女性による歌舞伎における男装は許されていない
 「女性差別」的で非対称な法律。

幸福度について
……
「幸福度」を国別・男女別にみたときに、先進国や発展途上国を含むほとんどの国は女性のほうが男性より低いのに対し、日本は逆に男性のほうが女性よりも幸福度が低いという結果があります。
……
わが国において、女性は家庭では妻として、母として、社会とのつながりの役割と、さまざまな役割を演じるのに対し、男性は仕事一辺倒というスタイルの人々もまだ多いのではないでしょうか。女性の方が圧倒的に担う役割が多く、それがしんどいことである一方、人生の豊かさにつながっているという可能性にも着目したいところです。今でこそ、男性の育休が推進されるようになり、男性の仕事以外での役割が与えられる(実現できる)ようになってきましたが……

P.102

→それらの「ケア労働」といわれるものは、
 「女性差別」によって女性に「押しつけられている」もの。
 男性について、育休が「推進される」ようになり、
 仕事以外での役割が「与えられる(実現できる)」ように
 なってきたと言われているが、
 女性は「ケア労働」において別に「演じている」わけではなく、
 「担って」いるのではなく「担わされて」おり、
 「与えられている」のではなく「押しつけられて」おり、
 そのことによって何かが「実現できる」のではなく、
 それらから「逃れられない」状況にある。
 「女性差別」が背景にある「ケア労働」について、男性側の視点から、
 それが「人生の豊かさにつながっているという可能性」
 などと言うことのグロテスクさ。

職業選択における男女差の検討において、一般的に考えられているほど男女差は大きくなく(ココ大事!!!)、一貫して男女差があったのは、女性が男性に比べて共同的な自己概念、興味、価値を強く示す点(つまり、女性の方が人からの目線を気にしやすい)、および男性が女性に比べてリスクテイキングや刺激希求を強く示す点にあることが示されています。

P.104

→後半に述べられているような男女差・女性の性質は、
 男性から女性への差別と暴力が激しい状況下にあって、
 女性が生存戦略として身につけているものではないだろうか。
 このことの背後にも「女性差別」があるという
 可能性について認識した上で、
 そもそも女性には安心して「職業選択」をする
 自由があるのかということこそ、
 「キャリコン」として問うべきことがらではないか。
 「男性優遇」で、「女性差別」について理解がないと思わざるを得ない。

女装男性のミソジニー(女性蔑視)を最も感じた部分

実際に生身の女性に匹敵するくらいの美を兼ね備えたクオリティーの高い女装男子が、今の時代には全国にたくさん存在します。
……
前向きな美意識と自己表現としての価値を持つ女装、そして男女平等、女性活躍推進の時代だからこその時流にかなった女装。

P.90

「女性なんかよりも男性の方が美しく女を装える」
 というミソジニー(女性蔑視)溢れる一文。
 この一文からすれば、本のタイトルは
 「女なんかより男こそスカートをはくべき!」であろう。

 男女平等、女性活躍躍進などと言いつつ、
 女性の権利については微塵も考えていないことが見てとれる。
 「女性が前向きな美意識と自己表現」として
 ファッションを楽しむことができるようになるためには、
 男性による女性への「美」の押しつけや差別が無くなり、
 女性の権利が真に尊重されることが重要。
 前述のような動機から為される男性の女装は、
 むしろミソジニー(女性蔑視)や女性差別を維持・強化し、
 女性の権利はますます軽視されるだろう。

(追記5/26)
 著者のひとりである 橘亜季氏 のnoteに、そのままの文章がありました。
 以下にも書きましたが、本書は彼の主張が中心となっているようです。

見えてくる女装男性著者の主張

著者のひとりである 橘亜季氏 は、
自身のnote記事で次のように自己紹介をしています。
(追記5/26)
 この記事を投稿した翌日(5/26)、当該記事が削除or非公開にされました。

私は男に生まれて、普通に男として生活しています。

自分が女だと思ったことはないし、瞬間的に男はつらいなと思うことはあっても、根本的に男であることをやめようと思ったことはありません。

でも、最近たまに女装するようになりました。

橘亜季氏note「私と性別と男と女」(2020年1月11日)より

彼は男性として女装をしている女装男性であり、
性別について、また男性の女装について、
同じ記事のなかで次のように書いています。

男とか女とかいう区別はあくまで便宜上のものであって、実際は比率の問題なのです。

ジェンダーとはグラテーションだといういい方もされます。

男も女の要素を持っていて、女も男の部分を持っていて、しかもその比率は完全に固定されてものではなくて、時とともに揺らいだりしている。

それは、男性の体内にも女性ホルモンが存在して、女性の体内にも男性ホルモンが分泌されている事実からしても、矛盾がないといえるでしょう。

​だから、私は男が女の服装を取り入れても、まったくおかしいとは思いません。

男だからという理由で女の服装を帯びることが否定されるということは、男が不自由であることを意味するとともに、男が女とは違うということに特別の存在を誇示するという点では、女が差別されているとみることもできます。

もちろん、一般論として男と女とでは体格や身体の特徴が違うことから、男が女の服装を取り入れる際にはそれなりの注意と節度が必要ですが、無下にすべての可能性を否定することは、そもそも人間が自然に備えているはずの両性性に対する冒涜だとも思えます。

橘亜季氏note「私と性別と男と女」(2020年1月11日)より

これらの文章からは
男女という性別の間にある性差・差別の構造についての
理解がまったく見られません。

男女を対等・対称なものとして捉え、
そこにある抑圧・差別の構造を無視しています。

にもかかわらず
 「男性が」女装できないことは男の不自由
 「男性が」女装できない=「男が」女とは違うということを誇示すること
  ⇒それは女性差別を意味する
という論理を展開しています。

この論理のなかには女性からの視点がひとつもありません。
男性からの視点のみ(「男(性)が」)で、
女性差別について説明をしてしまっているのです……!!
むしろ、そんなことが可能なのだということに驚きます。
女性不在の女性差別論」……それこそ女性差別の現れでしょう。

ちなみに、note記事の続きを読むと、
その後も女性からの視点はひとつも見られず、
最後まで「男性が」「男性だからこそ」という
男性中心の視点しかありませんでした。

つまり、橘氏の主張する男性の女装は
ただ「男性のため」の女装
でしかなく、
「男がスカートをはくこと」も「男性のため」にしかならず、
「女性のために」女性差別・ジェンダーギャップを解消しよう
などという動機はどこにもない
のではないでしょうか。

ちなみに、今回ご紹介した本は 神田くみ氏 という
女性のキャリアコンサルタントの方との共著なので、余計に残念です。
(ちなみに神田氏はプロフィールによると「アライ」とのこと)

この本は、女装男性 橘亜季氏 の主張に立った
女性不在「男性優遇」視点のジェンダー論であり、
ミソジニー(女性蔑視)に無自覚なまま、男性の自由を拡大する
有害な「男性のための」女装オススメ本 
であるというのが私の評価です。

そこにあるミソジニー(女性蔑視)について、強く批判します。

女装オススメ本をオススメするミソジニー(女性蔑視)な人たち

以前、別の記事
「男性の女性化/女装」の応援をしている団体
「乙女塾」についてご紹介しましたが
この団体は、当然のようにこの本をオススメしていました。

そこでも、この本の主張が
「男性優遇」視点のジェンダー論であるということも
そこにミソジニー(女性蔑視)が散見されることも
指摘はされていません。

「乙女塾」のこの記事の筆者である みなみ氏 が
どのような人物であるかは、以下の氏のnoteから知ることができます。

ただ「男性のため」でしかない女装……
「女性のために」女性差別・ジェンダーギャップを解消しよう
などという動機はどこにもない主張……
そこにあるミソジニー(女性蔑視)を指摘できない
「乙女塾」や みなみ氏も
この本や 女装男性 橘亜季氏 と同様

そこにあるミソジニー(女性蔑視)に無自覚に
有害な「男性のための」女装を実践
またオススメしている団体・人物
として、
ここにご紹介しておきます。


今回の記事は以上です。
お読みいただきありがとうございました。


「女装男性」については
「トランス女性」との境界線の曖昧さとあわせて
以前に記事を書かせていただきました。
関心のある方は、途中から有料記事になりますが
どうぞこちらもお読みください。


男性同士で女性差別について考える
女性を差別しない男性の会
「メンズリブAMAS」という活動をしています。

関心のある男性の方は、どうぞこちらもお読みいただき、
よろしければ仲間に加わってください。歓迎いたします。
TwitterアカウントとDiscordのコミュニティもあります。


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