質問されるのが嫌いな人って?
こちらの動画を見て、母との関係や、わたしが見ていた世界がどういう世界だったのかを思い出していました。
質問されるのがイヤな人って、自分が「わからない」ってことを知られたくない人なんだなって。
わたしの母がそうでした。
子どもの頃、わたしが質問すると、「そんなこと考えるのは暇だからだ!」と、よくイライラされたからです。
わからないってことは、バカだって思っていたのだと思います。
知人と会った後や、何かをもらった後に、わたし達家族に「〇〇さんにバカにされた」という言葉もよく使っていましたから。
バカだと思われることがが怖かったのでしょう。
母は、とても怖がりな人で、今もそうです。
だから、本当はわたしにイライラしていたのではなく、自分が傷ついた過去の経験から自分を守るために、質問するわたしに、攻撃するような言葉を言ってきたのだと思います。
「質問」に対してだけではありません。
わたしが過去のことを思い出して、「あのとき、こうだったね」という話をすると、「そんなことを覚えているのは、おまえが根に持つ性格だからだ」と、記憶力が良いことをとがめられました。
今、気づきましたが、ここからかもしれないですね、わたしが「愛とは忘れてあげること」だと思うようになったのは。
22年以上、一緒にいる夫には、母に言われたようなことを一度も言われたことがないのに。
母からのこれらの言葉を聞くたびに、わたしは「責められた」「攻撃された」と捉えたのです。
この世界は、攻撃される怖い世界なんだと、わたしの世界は出来上がったわけです。
親にさえ攻撃される世界。
自分のことを守れるのは自分だけ。
だから誰にも頼らず生きていけるようになるには、勉強して、ちゃんと就職して、稼がなければ!って、小学生の頃から思っていました。
一生懸命勉強しても、自分が思ったほどの成績を取れなかったので、通知表を見ては毎回毎回、大泣きしていましたが、どうしてそこまで激しく泣くのか、自分でわかっていませんでした。
バカが大嫌いだったから。
この世界が怖かったから。
本当はこの動画にあるように、わたしはただ、勉強ができないバカなわたしのまんまで、早く大人にならなくても、自立できなくても、愛していると言われたかったのでしょう。
わたしには、いつの頃からか、わかっていることが2つだけあります。
①《わたしはわたし、どこまで行っても、わたしはわたし》
②《わたしは何もわかっていない、わかったつもりになっているだけで、結局のところ、何もわかっていない》
いつの頃からか漠然と、この2つの感覚がありました。
それを言語化(自覚)できたのは、2020年の7月下旬でした。
この2つのことさえわかっていれば十分なような気がして。
そして、この2つのことがわかっていないから、結局ここに立ち返る出来事が何度でも起きてきたのだと思います。
わたしもあなたも誰も、本当のところ、《何もわかっていない》。
その前提に立ったとき、誰か(自分自身も含めて)や何かを責めても仕方がないのだと、よい意味で諦められるのかもしれません。
自分責めをやめて、「わたしは悪くない!」としたとき、今度は真逆に矛先が向き、他の誰かを責める感情が出てきたりします。
けれど、わからずにやっていたとだと腑に落ちると、自分や誰かを責め続ける原因探しの繰り返しの輪から抜け出し、あなたもわたしも誰も悪くない、被害者も加害者もいない世界にしていけるのかもしれませんね。
あぁ、やっぱりわたしは何もわかっていませんでした。
そんなわたしを、母を、ゆるそうと思います。