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ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOL3の6,000字レビュー! これは、弱さを肯定する「家族」の物語

 ジェームズ・ガン監督/脚本の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』(以下『GotG 3』)が2023年5月3日に日本公開された。
 本作は、2014年から続いていたピーター・クイル(クリス・プラット)を中心とするヒーローチームとしての「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー(以下GotG)」の作品としては、最後の物語とされている。
 私もいちMCUファンとして、公開日当日に劇場で鑑賞した。正直、自分は、エンドゲーム以降のMCU作品群を追いかけつつも、同時にMCUに対して「疲れを感じている」ファンであるという自覚があった。しかし、そんな自分にとってすらも、本作については掛け値なしに人へおすすめできる作品だった。GotGシリーズ3作目にして、これこそがシリーズ最高傑作だと個人的に考えている。

 このnoteでは、その理由をご説明させていただきたい。本作は、孤独や寂しさをかかえながらも、ひとの弱さを肯定できるヒーローたちの物語だった。

GotGとは

 『GotG 3』は、大人気のヒーロー・クロスオーバー作品群であるMCU(マーベル・シネマティック・ユニバース)の32作目であり、今年2023年からはじまった作品群「フェーズ5」においては2作目である。
 GotGシリーズとしては、2014年公開の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』(以下『GotG 1』)、2017年公開の『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:リミックス(英題:Guardians of the Galaxy Vol. 2)』(以下『GotG 2』)に次いで三番目の映画作品となる ※1。公開前の監督インタビューなどでは、この『GotG 3』は「ロケットの物語」であり、また「自分自身の物語」であることが明言されていた。

 GotGシリーズは、その1作目のキャッチコピー(日本公開時)が「宇宙よ、これがヒーローか。」であったように、従来のMCUヒーロー像とはやや異なる、ならずものたちによるチームである。そんな個性的な面々が、擬似家族のようなチームを形成しながら、宇宙規模の困難に立ち向かっていく。そんなキャラクターとストーリーに加え、「ジェームズ・ガン節」とファンから呼称される独特のユーモアから、マーベル・シネマティック・ユニバース(以下、MCU)作品の中でも、やや特異な立ち位置にあるといえよう。

※1 厳密には『GotG 2』と『GotG 3』の間のエピソードとして、Disney+で配信された特別番『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー ホリデー・スペシャル』がある。ドラックスとマンティスをメインに据えた作品であり、いくつか『GotG 3』につながる要素もあるため、まだ観ていない方がいたらぜひ視聴をオススメする。

『GotG 3』のあらすじ

 本作は、メインキャラクターのロケット(声: ブラットリー・クーパー/モーションキャプチャー: ショーン・ガン)が、アダム・ウォーロック(ウィル・ポールター)の襲撃によって重体におちいるところから、物語がはじまる。
 ストーリーの前半は、ロケットを救うために、クイル、ガモーラ(ゾーイ・サルダナ)、グルート(声: ヴィン・ディーゼル)、ドラックス(デイヴ・バウティスタ)、ネビュラ(カレン・ギラン)、マンティス(ポム・クレメンティエフ)といういつものメンバーが、本作の敵役、ハイ・エボリューショナリー(チュクーディ・イウジ)らに立ち向かう。ロケットを救うために必要なコードを入手する過程で彼らは、ロケットの「動物実験」という悲しく痛ましい過去を知る。
 そしてロケットが復活する後半では、ロケットと同じく「実験動物」としてあつかわれていた子どもたちやその他の動物たちを救出するミッションに挑んでいく。そこで彼らはハイ・エボリューショナリーと対峙していき、またロケットは自分のオリジンを見つける

弱さの肯定

 前作の『GotG 2』は、一つの側面として、シリーズ主人公であるクイルのオリジンの話であり、彼が育ての父の支援を受けながら、産みの父との対決を通じて自身のアイデンティティーを確立する話(一種の「父殺し」「貴種漂流譚」)だった。
 一方、本作は、ロケットのオリジンの話である。彼が「実験動物」として改造され、脱走し、今のように「口も態度も悪いが、寂しがりやで仲間思い ※2」となった経緯が語られた。そしてロケットは、自身の「創造主」であるハイ・エボリューショナリー ※3と対決する。その戦いをとおして描かれた本作のテーマの一つは、ひとえに「弱さの肯定」にあると自分は考える。それは、以下のロケットのセリフに代表される。

He didn't wanna make things perfect, he just hated things the way they are.
(奴は完璧なんて望んでない ありのままが許せないんだ)

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より引用
日本語は字幕準拠

これはロケットが、「完璧な動物」を探求するハイ・エボリューショナリーについて述べた言葉である。
 ハイ・エボリューショナリーが否定するものは、「ありのまま」にある人間や他の動物たちである。知性に対する偏重から、倫理や動物福祉を無視し、また自身の研究達成のためにはあらゆる手段を正当化する。自身の偏見に則しない、つまり完璧ではないものについては、そのすべてが否定の対象なのだ。

 この暴力的な姿勢は、GotGシリーズが1作目から育んでいた価値観に真っ向から反する。GotGのメンバーは先述のとおり「ヒーローらしからぬ」存在であり、各々に犯罪歴があり、また欠点をもつ ※4。本作でもそれは変わらず、例えばドラックスは、ネビュラに指摘されていたように、その考える前に行動する性質から、仲間を窮地に追い込むこともしばしばであった。クイルも新しいガモーラとの関係に悩み、本作冒頭から酒浸りの状態であったため、ロケットが重傷を追ったことに責任を感じていた。
 しかしGotGの仲間たちは、それも含めて、おのおのを受け入れあっている。例えば本作では、ドラックスに対して、ネビュラも最終的には「デストロイヤーではなく父である」と認識をあらためる。他にもグルートは、自身の相棒であるロケットに重傷を負わせたアダムに対して、赦しをあたえ、彼の命を救う。自分たちが歪であるという自覚からか、彼らはお互いや他人の欠点を許容し、人を無理に変えず、そのままを受け入れようとつとめるようなきらいがある。それはハイ・エボリューショナリーの、「不完全な」生き物を改造して理想郷を築こうとする思想とは必然的に衝突し、だからこそ彼らは対立するのである。

 以上のように、本作は、「人の弱さ」を認めるGotGらと、「完璧さ」を求めるハイ・エボリューショナリーの対決をえがいた作品である。「ありのまま」を肯定し続けてきたGotGが勝利し、「赦された」アダムによってクイルが救出された本作のラストは、3作をとおして描かれてきたGotGの魅力がここに、真に結実したといえるかもしれない

※2 劇場パンフレットより引用
※3 今回のラスボスでありロケットの「父」であるハイ・エボリューショナリーは、宇宙のバランスを取り戻すことが目的だったサノスのような、ある意味で「高尚な」悪役とは異なり、より生理的な嫌悪をいだいてしまうキャラクターだった。文明のジェノサイドを含む非倫理的な動物実験をおこない、また周囲の研究者についても顧みない非常に自己中心的な人物である。特に、ロケットの知性に対して嫉妬を爆発させるシーンなどは、観ていて非常に不快であり、ロケットに心底同情してしまう作りになっている。
※4 そんな面々の中でも、シリーズをとおしてひときわ成長をみせたのはネビュラであろう。当初は、養父のサノスに拷問・改造をうけながら暗殺者として育った残酷なキャラクターだが、本作ではGotGの仲間たちに献身的な存在として、ロケットの治療から戦闘、ラストの敵拠点のコントロールまで八面六臂の活躍だった。このネビュラと、同じく本作で成長をみせたロケットは、『アベンジャーズ/インフィニティー・ウォー』での「指パッチン」から生き残った数少ないメンバーでもある。

ロケット: オリジン

 この作品のテーマとするところの一部は既に語ったが、それに加えて本作の魅力は、なんといってもロケットの物語とちうところにある。より詳しくいうのであれば、本作はロケットのヒーローとしてのオリジンが描かれている。
 ロケットは、前述のとおり、仲間に対する強い想いはあるもの、逆にいえばそれは仲間内だけのもので、過去作をみても、他のメンバーに比べて積極的に他人を救おうとはしない傾向にあった。それはつまり、「弱きを助け強きを挫く」ようなヒーロー像からはほど遠いということである。しかしそんな彼は、本作では従来と異なった姿勢をみせる。

I'm done running
(俺はもう逃げないぞ)

『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー:VOLUME 3』より引用
日本語は字幕準拠

ロケットは、かつて同じ実験動物の仲間を亡くし、一人脱走するしかなかった敵施設の発着場で、過去の自身を乗り越えるように上記引用の言葉を発する。この言葉を契機に彼は、今の仲間たちと共に、子どもたちや実験動物らの救出劇におもむく ※5

 そしてロケットは、自身のルーツである種族である「ラクーン」を見つける。そこで同時にハイ・エボリューショナリーとも対峙する。そこで彼は、はじめて「ロケット・ラクーン」と名乗り、ヒーローとしての責務を果たすのだった。
 ドラえもんに対する「タヌキ」のように、アライグマと呼ばれることを嫌っていた彼が、元のマーベルコミックスでいうところの正式名称(ヒーローネーム)をはじめて名乗るこのシーンは、感無量である ※6。彼が自身の痛ましいルーツを乗り越え、本当の自分を肯定できたのである。そし彼はハイ・エボリューショナリーに勝利し、自身と同じ状況にあった動物たちを解放する。

 このようにロケットは、本作で自身の過去を克服し、ヒーローとしての名乗りをあげた。

※5 このシーンのすぐ後におこなわれたGotGのメンバーの共闘のアクションシーンは、GotGシリーズ屈指の迫力だった。というか、ひょっとするとMCU全体としても有数のチーム戦かもしれない。早く配信で、じっくりコマ送りで拝見したいものである。
※6 どれくらい感無量だったかというと、ロケットのむごい過去シーンでフラストレーションがたまっていたこともあってか、『アベンジャーズ/エンドゲーム』のセリフ"Avengers, Assemble!"を彷彿とさせるレベルの盛り上がりが、個人的にはあった。

本当の「家族」へ

 本作が秀逸な作品である3つ目の理由として、そのラストの描かれ方をあげたい。
 ラストでは、GotGは発展的解消をとげる。ネビュラとドラックスは、今回救出した子どもたちを適切に保護するためにノーウェアに残る。マンティスは、常に周囲へ献身的であった自分を省みて、ドラックスからも離れて自分のやりたいことに進む。ロケットは、クイルより船長に任命され、グルートや新しい仲間とともにGotGを引き継ぐ。クイルは「泳ぎを覚える」ため、背を向け続けていた地球へと帰還し、祖父に会いにいく ※7

 彼らが解散を迎えるのは、もちろんメタ的には、今回が最後の作品であり、今後のMCU作品群との整合性をとるためである。しかし、それを踏まえてなお、上記の彼らの動きは、ファンとしては自然に受け入れやすく思える
 元々、彼らは、その各々の出生や経歴からして、親や家族、善良な保護者の不在を共通項としていた。その寂しさや孤独ゆえに一人であり、またそれ故に仲間を求め、GotGを結成してきたともいえる。しかし彼らは、今回の出来事により、相互に認め合い、だからこそまた離れ離れになることができた。お互いの弱さを肯定できる関係が物語られたことで、寂しさから解放され、彼らが初めて自分の道を選べたのだと、そう思わせるようなつくりであるのは、偶然ではないだろう ※8。彼らが、最後に別離したのは、その関係性がある種の至高なもの、いわゆる「家族」※9 になったからかもしれない。

※7 不満点をあえて述べるなら、クイルが地球に戻る理由がやや弱い印象になったことである。元々ロケットの物語という点からして、比較的影の薄いクイルだったが、なぜ彼が今になって祖父に会いにいくべきなのか、もう少しストーリー的に補強が欲しかった(例えば、レプリカの地球の崩壊に対してもう少し心境を吐露するとか? もし自分が重大なトピックやシーンを見逃してたら、ぜひTwitterとかで教えてください)。
※8 エンドロールにあった各キャラ・過去シーンの写真群は、なんだか卒業アルバムのようで、少し泣けるものがあった。彼らは再び離れ離れとなるが、それでもきっと「家族」なのである。
※9 これを単に家族というと、やや、もしくはあまりに、旧弊な表現にも感じるので、ここでは鉤括弧付きの「家族」としたい。

むすびに

 今まで見てきたとおり、本作は、弱さを認めるというGotGの従来からの魅力の結晶のような作品であり、またロケットがはじめてヒーローになれた物語である。それに加えて、本作のラストは、彼らが本当の「家族」となり、寂しさを解消したのだと思わせくれる余韻があった。以上の点から、私は本作をGotGシリーズの最高傑作であり、またMCU全体という観点では、特にフェイズ4以降においても、群を抜いた作品だと考える ※10。その意味では、MCUに「疲れた」ファンに対して、また観てみたい思わせるような作品であり、MCUファンとしても非常に嬉しい出来である。

 本作で印象に残ったセリフの中に、グルートに命を救われたアダム・ウォーロックに対しての言葉である「セカンド・チャンスを与えるべきだ」という趣旨のものがある。これは、全編を通してやや影の薄かったアダムを引き立てさせたセリフであり、これがクイルの最後の救出にもつながる。作品のテーマの一つと思われる「弱さの肯定」を代表するようなセリフでもあるのだが、MCUファンとしては、同時に、ジェームズ・ガン監督の本作の降板騒動を想起せずにはいられない。
 降板の理由となった不適切ツイートは、どうやっても肯定できるものではない。しかし彼は、本作キャストによる再雇用を希望する声明やファンによるオンライン署名などから、再雇用となり、本作の撮影・公開というはこびになった。
 これはまさに「セカンド・チャンス」であり、「ロケット=自分自身の物語」であるところの本作をつうじて、「弱さの肯定」というテーマを描くことは、うがった見方をすれば、ある種のみそぎのようにも解釈できる ※11 。再雇用についてはもちろん賛否はあって然るべきであり、一方でこのような優れた作品が撮影されたことも、結果の一つではあった。

 「セカンドチャンス」により結実した ※12『GotG 3』をうけて、MCUがさらにどのように発展していくのかが非常に楽しみであるとともに、本作でMCUから離れ、今後DCコミックスをもとにした映画作品群を担当する本監督が、どのような作品を生み出していくのかのも、同様に期待がもてる。今後のヒーロー映画に想いをはせながら、この文章を終えたい。

(文: イツキ)

※10 ここまで書いてなんだが、実をいうと私は、正直、GotGシリーズの作品はそこまで好き(得意)ではなかった。理由の一つは、ジェームズ・ガン監督の攻撃的なジョークであり、それは例えば、本作でいうと、予告にもあった異星人の子どもにおもいっきりボールをぶつけるようなタイプのジョークである。しかし、それを差し引いても、本作については本当に楽しめた。劇場で観ていて涙ぐんでしまったMCU作品は、『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』ぶり4度目である。
※11 むろんこれは「そうとも解釈できる」というレベルの話で、それを意図して製作された作品であるとは思っていない。すでに述べたとおり、 GotGシリーズは、最初から、ヒーローらしからぬメンバーが失敗をしながらも宇宙を救う話ではあるので、「セカンドチャンス」は今にはじまったことではない。降板騒動を経て大きく脚本を書き直したという話も聞かないので、あくまでファンの目線で、後天的にそう受け取れるというだけの話である。
※12 
そもそもMCU自体も、2008年公開の第1作『アイアンマン』からして、ロバート・ダウニー・ジュニアが「セカンド・チャンス」を得てはじまった作品であるともいえよう。


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