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「病弱とよばれた男」アイディア創業者 / 弁当箱と古新聞 だれもがクリエーターだった時代

病弱とよばれた男 

食堂を開業した男の物語

■戦後直ぐに、持ち前の 鈍感力 で 都心に近い観光地に1軒の食堂を出した男がいた。彼は料理など出来なかったけれど、そんなことは気にしなかった。 
#仕事について話そう



その店は今も続いています


さる有名観光地に今もある1件の食堂
その店を始めた店主は、昭和の時代、実家は薬局で仕事はレントゲン技士だったといいます。
さらに、そんな店主の父親は医者だったと言いいます。
そんな店主は、なぜか戦後の #ドサクサ  のなかで この食堂を始めます。なぜ、レントゲン技士の男が食堂を、彼は特別料理を学んだことも無ければ、日頃から料理をすることも無かったのです。
仕事があり、妻が居て穏やかな日々を過ごしていました。
けれど、戦時統制の影響なのか、で家業の継続は出来ず、それでもレントゲン技士の仕事はあり、保健所連携して日々過ごしていたようです。

男のもとに赤紙(戦時招集令状)が来ます


戦争が激しさをまし、病弱だった男のもとにも、赤紙が来ます。
この街の人達は彼を、徴兵検査にバンザイで送ったのだと思います。
親族、親類、近所の人達は、みな口を揃えて言っていたと言います。
「彼は身体が弱いから、戦地行ったが最後、生きて戻らないね」と、
彼の妻をはじめ、家族は覚悟を决めて彼を送る出したと言います。

その日の朝にバンザイで送られ この街の駅から発って行った男は
徴兵検査に受け、即時入隊 という流れだったようです。
やがては戦地へ という前提のものであるのでしょう。

普通の人が戦争に行くのです。
その気持は、想像も出来ないでないのですが
本人は覚悟をしたと思います
前日のより 人はこのような中で眠れるのでしょうか
家族は 妻は そのように考えると、極めて深刻な事態だった
でも、それがその頃の日本の日常であったと思われます。

覚悟のもとで、想像もできない普通の人間が戦争に行くのです。

男は故郷に戻る

けれど、男は やがて 家族のもとへと無事に帰って来ました。
出ていった時と全く同じ姿で。

彼が戻って着た時、家族の気持ちはとても複雑だったと思います。
勿論、帰って来た本人も当然のこと。
助かった そう感じても、口にすることは出来ない時代だったでしょう。
多くの人が、この町からも戦争に行ったわけです。

それに・・・

帰って来た男

男が戻ったのは、バンザイをうけて街を出た、その日の午後
理由は、徴兵検査で不合格 徴兵免除 当時徴兵検査合格は
”おめでとうございます” と言われる時代でです。
不合格 徴兵免除 は一つ間違えれば、徴兵逃れ 非国民 何を言われてもしかたのないのかも知れない時代でした。
不合格の理由は #ろくまく  つまり結核の病巣があり 徴兵にあたいしないということでした。 事実、男は若い時にも長い間を #サナトリウム  にて療養をか避けており、その状況は明らかで、徴兵検査を受けさせるならば、令状を出す前に解るそうなくらい、闘病をしていた実態がありました。
つまり、男はここで兵士としては役に立たないと判断されたのです。

けれど、男の家では、弟は航空会社に努めていた飛行機乗りであった関係から、そのまま、軍に採られていたし、親族もみな、軍人、軍属として戦地に行っていたこともあり、男の徴兵検査不合格は、街の人にも後ろ指を刺されることは無かったようです。
やがて、男の実弟は、南方上空にて撃墜 戦死しており、その遺骨を携え本土に戻ろうとしていた、軍属として従事していた親族もまた、船舶によりシンガポールを発ち、台湾海峡を航行中に米潜水艦の攻撃を受けて乗船中の船舶が撃沈され死亡した。
この撃沈された船の名は 阿波丸 といい、この撃沈は #阿波丸事件  として、今も記録に残っています。
男の妻の実弟も予科練から飛行機乗り、それなりにお国には貢献していたのだと思います。

病弱な男の終戦


いずれにしても、この戦争で、兵隊に採られることは無かった店主。
だが、この時代、徴兵不合格は、精神的にもきつかったと想像に容易いです。
が、この男 かなり精神的には強い男だったようで、こそこそと、午後に地元に戻ると、徴兵前の仕事に即復帰とはなかなかならず、 代わりにやってた仕事が、あろうことか #社交ダンスの講師  という、 徴兵免除でそれか と言われても、頭を下げるしか無いと、現代の私でも思うのだけれど、この男はそんな卑屈なところなど全く無く正々堂々生きていた。
戦中のこの場所には、主だった空襲も攻撃もなく、東京中心部からもさほど離れておらず、さらに近郊には #横須賀鎮守府 もあり、海軍軍人 それも高級士官が居所をえていたことからも、社交ダンス というニーズは少なからずあったのかもしれない想像しています。
むしろ、戦争は終わり それが完全な 敗戦となり、こうなれば勿論、社交ダンスを教えるなんてことは、全くニーズ無く、食う 生きる が総ての目的にと変わります。食料が、統制、配給の時代において、男は力強く、病弱な身体のままで、生きていきます。
ここんいは、この男は戦に勝とうが負けようが、関係のない、生きるための工夫と、目的に対しては他の部分を流してしまう、独自の鈍感力と意志の強さがありました。
戦後はすぐに動き出し、
終戦の日から1年と数ヶ月で、男は店を開きました。

料理のできない男が食堂店主になる

総てが生きること以外からは、後回しの戦後、この男、戦前の薬局やレントゲン技士、ましては社交ダンス講師という、いずれの商売も成り立たず、自分になにか出来ないかと考えたのです。

だいたい、肋膜(結核) 持ちなど長生きは望めない時代。けれど偶然なのか何なのか、この時期、人類の結核との戦いが飛躍的に進歩した時期とあいまって、彼は死ぬこともなく時代とともに生き抜いたのです。

昭和22年 薬局とレントゲン技士で保健所にコネを持っていた男は、飲食店の営業許可を得ます。
このあたりが凄いのは、この男に料理の経験など無かったのですが、男の妻は赤坂見附の料理屋の娘だったことから、その伝で、料理人から料理を習い、何とか客に出せるものを作れるようになったといいます。

順番は本来なら逆だろうけれど、男が考えていたのが、飲食業の許可を取るほうが、料理を覚えるよりもハードルが高い、ならば難しい課題から解決する。これがこの男の哲学だったようです。
この時代は先に手を回して、権利や許可を得ることが出来れば、後はなんとかする なんとかなる ではなく 文字通り #なんとかする  だったのだのでしょう。

そして、この夫婦が出しのが、#洋食屋 だったわけです。
ただ この時代 #洋食屋  の看板は 敗戦国の国民感情からも少々気が引けたのか、なので、メニューは洋食屋にもかかわらず 看板には #とんかつ  それも #トンカツ  ではなく ひらがら とんかつ の字をあてたようです。

(軽い余談です)


この男の妻の人生も特筆で、子供の頃は赤坂は弁慶橋で泳ぎ、出てくる顧客の名前は、当時の大物ばかり、昭和11年 2月26日 赤坂の彼女の自宅の庭には、反乱兵が潜んでいるのを目撃したと生前に話していたのを聞いています。その店も、家も戦後は没収にあったとのことですが、誰による没収なのかは聞いていません。ほぼ現在は、一族は絶えているようです。統制された米を提供するために

【ここに、クリエイティブセンスが見えた!! 弁当箱と古新聞 】

さらに、この時代、コメは統制品だったようで、飲食店と言えど、米を営業用に販売することは困難だったということでした。
ここで言う困難は、入手が困難なのはもちろんですが、販売することが認められない困難さがありました。
米 自体は独自の流通ルートで確保できたようです。
こうなると
米を食べたいお客さんとに、手元にある米を炊いて売りたい
利害は一致しています。
あとは、ペルソナの仮説です。
その意味では、この店主は クリエーターとして かなり とんがっていたとも言えます。

そこで店主は、アルマイトの弁当箱と古新聞を用意しました。
客が来れば、料理は当たり前に提供するのだけれど、普通ならがご飯は提供が出来ない。そこで店主は、ご飯をアルマイトの弁当箱に入れて、古新聞で包み、お客に提供したのです。
たったそれだけの工夫で、本来は当製品の米でマネタイズできる。
闇市は、暗黙の了解で出来た、マーケットです。
この店は、正規店でありながらも、暗黙の了解を内包したビジネスです。
仮に、何かの調べがあれば、このように説明するのです。

「このご飯は、お客さんが自分で家から持ち込んだものであり、店が出したものではありません。料理は出しましたが、ご飯はお客さんのお持ち込みなのです」

この発送はもはや  #クリエーター  だと思います!!

おそらく、取り締まる方も、そんなことは百も承知だったに違いはなく、だからこその、生きるために必要な茶番劇だったのだと思うのです。
時には、袖の下も必要だったのかもしれません、反発も密告もあったかもしれないのです。けれど店主は持ち前の 人好きのする笑顔と人柄で この店はとても繁盛し、戦後を乗り切っていつたのです。

幸い創業以来、この店は繁盛を続けました。
従業員を抱え、一時期は住み込みの従業員が複数おり、家族経営とは言いながらも多角化し。関連する店が本店、支店と広がり、さらに同じ町にもう一店舗、この店で料理を覚えた親戚がだした、洋食を出す喫茶店も開業しました。 
小さな町に3店舗が店を開いたのは、1980年代でした。
大正(たいしょう時代)生れの店主は病弱と言われながらも、1990年の前半までの生涯を全うしたので、当時の日本人男性の平均寿命を超える筈ですね。
やがて、代替わりを続けてるうちに、店は結局は最初の1店舗のみになったのですが、やがて創業78年になります。
その先は、誰にもわかりませんけれど。

「店主の思い出」
この店の包装紙は店主のデザインで、その可愛さは その才能が溢れます
この店主のネーミングする能力は、かなりセンスがいい 頼まれて店名をつけることもあつたようです。

(軽い余談です)


この男の妻の人生も特筆で、子供の頃は赤坂は弁慶橋で泳ぎ、出てくる顧客の名前は、当時の大物ばかり、昭和11年 2月26日 赤坂の彼女の自宅の庭には、反乱兵が潜んでいるのを目撃したと生前に話していたのを聞いています。その店も、家も戦後は没収にあったとのことですが、誰による没収なのかは聞いていません。ほぼ現在は、一族は絶えているようです。ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
この話は、生前の店主や、その妻から聞いた話であり、その事実はわかりません。話の内容との現実の乖離も、各所にあるかもしれないことを、最後に書き添える。(もはやこれらの話はフィクションでしょう)


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