無意識の連なり
何かのきっかけで「それ」を見る(知る)と、それが入り口となって新しい見方が少しずつ広がったりする。
だけどまた、たった一回だけとか今までにはないそれだったりすると、その小さな穴は閉じて見えなくなるかもしれない。
少し習慣になってくる、くり返して何度もそこから見てみる…。小さな穴はそうしてしっかりした通路となってよく見えるようになるかもしれない、そんな風に思う。
この、まだ”身に付かない”、習慣になっていない段階というのは、頭の中の理解、「見え方」なんだよね。だからそれを何度も見るような事がなければ線が強くならないし忘れてしまう事もよくある。
逆に、身に付いている事は無意識でも出来てしまう状態なので、自然とそれが回るようになっている―――、だけど?
身に付いていることというのは無意識で、”その動作”の中に集約されている(収められている)ものがあるので。”その動作”自体が行われないと、意識を作動させなければならない。そんなことがあった。人はかなりのパターンで動いている。
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毎日の動きの一部を”担当”していて、その流れの連なりで「そこ」があった事が分かった。
『あれ、もしかして…全然変えてなかった!?』
ガラスの龍の置物の水を毎日換えるのだけど、ある時水がかなり減っている事に気づいて、これにはかなり驚いた。
「そこ」へ行く前の動きを、主人がずっとやってくれていて、私はその主人がやってくれた部分からの連なりで、普段はお水の交換をしていた。数日そこは見ていなかった事になる。
気づけたのは、その日はそこを掃除する日で、”目が行った”から見ることができた…、それまでは私の習慣が一部省かれてしまったため、同線の一部がプツッと途切れてしまったようだった。
ワン達のご飯が終わり、ご飯皿を乗せている台などを片付けるその時に、その流れで近くにある杯を下げていた。主人の職場復帰の前のことで、ご飯皿を下げたりすることを主人が変わりにやってくれていたので、私はご飯の後にほぼ必ずオシッコをするニコルをトイレシートに誘導する方へ行ってしまい、安心して”片付け”を任せていた。
普段の動きは”その一連”でやっている事なので、意識して毎日行っているわけじゃなく、だけど漏れなく当たり前にやっていたのだけど、その”無意識の動作”が一部なくなった事によって、連なりとしてそこにあった動作までがなくなってしまっていた(笑)
なるほどなぁ…、身に付いていることって、それだけに限らず、無意識に何かと”一緒に”動きとして動作しているんだ、そう思った。
自分が他者という相手のラインに入る事は難しい(やりづらい)と、以前に書いたけども。他者が自分のラインに入ることもまた”自分”に変化が及ぶ。一々を考えてやっているのであれば、こういう事もないのだろうけども、大体日々のことはくり返しているものなので、いやでも”習慣化”されているものが多く、意識は省くことが出来る。
その後からは暫く意識的に「そしてお水を換える」と初めは口に出しながら忘れないように動作し、主人は復帰しているので、また以前の私のラインで完璧に無意識が動いている。
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何気ない日々のできごとを書くわけだけども、そしてその中から「そうか…」はたくさん見つかっていくのだけど。
最近とてもよく感じていたのは、「私」というものは、実にバラバラだというもの。これは言葉としては何度も表現してきているし、それが、自分の動きのことから、それをしみじみ感じているというところ。
”空間”の違いは、この頭の中の処理している所の違いという風に、ザックリと書くけども、理由は表の”実感”から感じる事が多くなっていたからだった。「私」は本当にバラバラでパーツを集めた存在。この内(頭の中)と外のこととを内外とで張り合わせて一致させている。
この一致は、慣れ親しんだものなら「記憶」という形で、外との差がなく別ものという認識を挟む余地もない、違和感もないのだけど、初めての事であったり、ちょっとこの頭の中と現場というこのリアルでの出来事に”ズレ”があると、その事の擦り合わせにタイムラグという時間に差があることを見る。
この頭から出るという事は、先に頭の中に情報があろうと、先に現場を知ろうと、どちらであっても結局は張り合わせての”一致”という、理解納得(認識)になるのだろうと思った。
内と外、情報と経験がそれぞれにある。
それでも「あぁそういうことか…」と後になって肚に落ちるのは、そういう事なんだろうと思う。
以前の私はそれを、両輪が揃うとか、長旅を経て肚に落ちるとかいう表現をしたと思う。それはまだ内・外というものに私自身が距離のある状態で、旅の途中だったから。
そんな事を何度かくり返した事で、ひとつの旅が少し短くなりソレとコレという結びつきまでの時間が少し短縮されたから距離を縮めた「貼り合わせ」という感覚が出たのだろうと想像する。
内からの表現は自分の中の感覚なので、どんどん変わって行くけども。
変わっているのがリアルであって、変らずにいられるのは頭の中の記憶という固定された状態だと、ここからは少し解していきたいね。