見出し画像

毛皮を着たヴィーナス

"私はふいに甘い恍惚感に襲われた。『女の、それも美しい女の奴隷になること、私が好きなのは、私が恋いこがれているのはそのことなのです!』1871年発刊の本書は著者の人生とも虚実いり乱れるマゾヒズムの由来となった長編小説。

個人的には既に周知の様に、単純な対立概念ではないものの、どちらかと言えばサディズムよりはマゾヒズム傾向を自覚していることから関心をもって手にとりました。

さて、そんな本書は一応は『性愛小説』に位置付けられるのでしょうか。でも、人によっては大切かもしれませんので?最初に言っときますが。驚くほど【エロティックではありません】うん、少なくとも直接的な性描写はありません。(わ、私は残念ではありませんよ)

それを先に書いた上で、簡単なあらすじを紹介すると、まずは冒頭で"私"が『夢の中でヴィーナスと会話する』幻想的なシーンから始まり、その話を隣人の親しくも風変わりな貴族ゼヴァリーンに話をしたところ、その夢を見るキッカケとなったのはこの『毛皮を着たヴィーナス』のせいだろう。と【自身の手記を手渡すところまでが導入部分となって】そこからゼヴェリーンが過去、自分の理想の貴婦人ワンダに【毛皮フェチ、鞭に打たれる快楽を叶えてもらう為】に契約を結んで奴隷として仕えた"幸せな日々"が約200ページで描かれているのですが。

いやあ。なんでしょうね。流石は元祖と言うべきか。ワンダが何度も『もう、やめませんか?』と女王様と奴隷の演技的な関係を演じるのをやめるのを提案しても、その度に『信念(性癖)を貫く』ゼヴァーリンの必死な姿にドン引きというか、圧倒されてしまいますね。。

また、そんな本書全体としては古典的な恋愛小説としての意外にオーソドックスな流れの合間に反復されるノイズの様な形で【毛皮女王による鞭打ちプレイ】シーンが何度も重複して挿入されているわけですが。後書きにも書いてますし、既にご存知の方も多いと思いますが。ゼヴァーリンのみならず、著者自身が【この作品を実体験する為に】本書発刊後に実際に【貧民街の女性を貴婦人ワンダに仕立てあげて】作品の虚構世界を快楽の為に現実化したのには凄まじい執念だな。と呆れるのを通り過ぎて感服してしまいます。(ティツィアーノ『鏡を見るヴィーナス』を知れたのは良かったが)

マゾヒズムの原点、人によっては聖典として。幻想的な性愛小説好きな方にもオススメ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?