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この空間を創造する人の物語を知りたい【本:アマン伝説 創業者エイドリアン・ゼッカとリゾート革命】
以前、メコンデルタのカントー市にあるアゼライリゾートのnoteを書いたことがある。私は、このアゼライの存在がきっかけで、元アマンリゾーツ創業者で、アゼライ創業者のエイドリアン・ゼッカ氏について興味を持った。それまでは、あまりホテルやリゾートの設計秘話?とか歴史というものには興味がなく、デザインやサービス、食事といった目に見えるもの、体感できるものを中心にホテル選びをしていたけれど、アゼライとの出会いは結構衝撃的で、「この空間を創造する人の物語を知りたい」と思ったものだった。
『アマン伝説 創業者エイドリアン・ゼッカとリゾート革命』とはアマンの創業者エイドリアン・ゼッカの軌跡を追って、インドネシア、タイ、スリランカ、香港、シンガポール、そして日本へ、リゾートホテルの変遷(へんせん)を通じて、アジアの戦後史を捉え直す画期的ノンフィクション作品。
「アマン」はサンスクリット語、ヒンディー語、パンジャブ語、アラビア語、ウルドゥー語、ペルシア語で「平和、安全、無事、宿、保護」を意味する
ちょうど、プライベートでアマンという名前のインド出身の友人と出会い、そしてその子の友人であるパキスタンのパンジャブ地方出身の友人との会話がヒンディー語とウルドゥー語で話していたのもあって、この言葉自体に惹かれたし、かつ文化や歴史の融合や創業者の想いや知的好奇心に心躍るものがあった。
アマンプリ:サンスクリット語で「平和の場所」
東洋的なエキゾティシズム
ココナッツ農場の美しさに一目惚れする
「自分の時間を保てなくなった人々が訪れている」
コロニアルホテル:ヨーロッパ建築を熱帯の気候に適応させたものであり、現地の建築様式を採り入れたものではない。その後、アメリカ経済の繁栄と共に、アメリカ的モダニズムの大型ホテルが登場する。(マイアミやハワイに出現した高層ビルのホテルが脚光を浴びるようになる)
アジアンリゾートの勃興(ぼっこう)は、日本のバブル経済とその崩壊に始まり、アジア経済が世界の中心に躍り出た時代と重なりあう。
独立心旺盛な女性
地質学を学んでいた金谷太郎は、その後、研究生活を断念し、家業のホテルを継ぐ(日光金谷ホテル)
山口正造
1899年、17歳で単身渡米。その後、英国に渡り、1907年に帰国するまで、多感な青春時代を欧米で過ごしている。それは留学というより、むしろ放浪だった。(富士屋ホテルの後継者)
自由奔放で破天荒な人物、しかも、この時代の欧米通としては珍しく、南方のアジア諸国(南国の太陽、熱帯植物のむせるような香り)をことさらに好んだ
1928年、東南アジアを旅した時の記録が『南洋遊記』
旅と冒険が好きで、世界各地を旅して養った感性をホテル経営に活かす
ゼッカ家の祖先ジョセフ・ゼッカ:現在のジャカルタ
ゼッカとは、ボヘミアの出身を匂わせるドイツ語の名前である
ゼッカ家では、英語、オランダ語、中国語、インドネシア語の共通語と地方語、そして日本語が時と場所、相手によって使い分けられる。
ウィヤ・ワォルントゥが創業したタンジュンサリと隣接する別荘地バトゥジンバは、エイドリアン・ゼッカがアマンリゾーツを生み出した、おそらく最も直接的な背景と言っていい。建築家ジェフリー・バワがバトゥジンバに手掛けた建物が、いわゆる熱帯リゾート建築の原型となり、その系譜の先にアマンプリもアマンダリもある。すべてのつながりは、オランダ植民地時代のスカブミから始まった。
ジェフリー・バワ:スリランカ、インド、インドネシアのバリ島・・
「アマンに影響を与えた」という枕詞で語られてきて、著者は知った
本:デイビッド・ロブソン
”Beyond Bawa: modern masterworks of monsoon asia”
バワに影響を受けたとされる建築家の総称、バワの哲学を理解すること
熱帯の風土を西洋的なモダニズムと融合して建築に表現しようとした
代表的なアマンの建築家:ケリー・ヒル
モンスーンアジアとは、スリランカ、南インド、ミャンマー、マレーシア、シンガポール、インドネシア、タイ、カンボジア、ベトナム
スリランカのゴールにあるジェットウイング・ライトハウス
インド
ミャンマー
ラオス
インドネシアのバリにあるタンジュンサリ
タイ
カンボジア
ベトナム
セイロンの歴史
植民地支配を背景としたヨーロッパ人とアジア人の地が混じり合った人々を、スリランカではバーガーと呼ぶ
ルヌガンガ:塩の川
1952年33歳で、ついに建築家になるスタート地点に立った
1957年38歳で、最後の試験に合格し、建築家として英国王立建築家協会の一員に。
教養があり、ウィットに富んだ人物で、尊大でわがままなところがあるけれど、いい仲間
「そうして私は、バリと恋に落ちたのだ」
Adrian Zecha on Jimmy Pandy『tandjung sari: A Magical Door to Bali』
バリのビーチ沿いのホテルとしては、1936年にアメリカ人の写真家、ロバート・コークと彼の妻ルイーズ・ガレットが創業したクタ・ビーチ・ホテルが最初になる
サヌール・ビーチは、1942年開戦後にバリ島沖海戦で日本軍が上陸した場所
インドネシア独立の英雄、スカルノ元大統領
エイドリアンは1951年から1953年までアメリカのコロンビア大学で学ぶ
ジャカルタの地方通信員として、タイムマガジンとニューヨークタイムスの仕事を始めた
ゼッカは、記者として東京に派遣され2年間暮らした
エイドリアンが愛した日本の三浦半島にある土地
日本の建築やライフスタイル
1987年、初めてアマンリゾーツを日本に紹介した田中康夫
1991年、ラグーナ・プーケット・リゾート
1992年、シェラトン・グランデ・ラグーナ・プーケット
1993年、アラマンダ・ラグーナ・プーケット
トロピカルガーデン・スパ
観光業の主役にアジアが躍り出ようとしていた
トリサラ:仏教の教えで「三番目の天国」という意味のサンスクリット語。仏陀は瞑想の末、天国には七つの階段があることを悟った。その教えによれば、三つ目の天国に至ったとき、そこに美しい庭があったという。トリサラは、「天国の庭」という意味でもある。
アマンダリ:アユン川を見おろす眺めの美しいこの場所
一番共感した部分:マーク・エディルソン氏
「ファイナンスの専門家でありながら、ベトナム戦争の最中、兵役を逃れるために、ピース・コープに参加する。農業ボランティアとして3年間、マレーシアで生活。その時、最初の休暇でバリを旅したことが、エディルソンの脳裏に強く焼きついた。ラオスで英語教師をしたり、各地を旅して、東南アジア滞在歴は5年間に及んだ。その後帰国し、オハイオ大学で国際関係学の博士号を取得。彼は、どうすれば東南アジアに戻れるかを考えて人生設計をした。」・・・そう。
人生設計の軸が、どうすれば東南アジアに戻れるか
本:『Amandari, design and building』by ピーター・ミラー
アマンダリ:平和な精霊
ロサリ・コーヒー・プランテーション
メサ・スティラ (MesaStila Resort and Spa) -マゲラン-
リゾートのロケーションの選定
「その場所に5分もいれば、アマンにふさわしいかどうか、私にはわかるんです。私の内臓が、私に教えてくれるからね」
「私はホスピタリティ産業ではなく、ライフスタイルビジネスをしているのです」
いくつものライフスタイルを頭の中で認識するだけでなく、自分自身の好奇心のアンテナを張り巡らせて、あれこれと首を突っ込み、面白がって楽しむのが、エイドリアン・ゼッカという男自身のライフスタイルなのだろう。
アマヌサ:平和な島
アマンジオ:世界遺産ボルブドゥールを望む
エイドリアンゼッカが植民地アジアの華僑であり、アメリカで教育を受けたジャーナリストだったのに対して、ソヌはヨーロッパのエリートとして成長したイギリス生まれの印僑だった
それぞれをしたたかに生き抜いてきたDNAがあった
1998年10月、エイドリアンゼッカはアマンの経営責任者の地位、さらに取締役会のメンバーも辞職することになった
また別の本で読んだ内容で、ブータンでのアマン創業の話も書かれていた。ブータンでのアマン創業には、着想から開業まで実に20年かかっているのだ。周到な観光政策で知られる国であり、旅行者一人あたりの最低滞在費を設定し、その額を支払わなければビザが下りない。観光客数を限定し、単価を高く設定する。環境に負荷のかからない、徹底したラグジュアリーツーリズムを早くから独自の考えで実践していた。
アマンの次はマハ
メキシコのアシエンダ:植民地時代に生まれた大農園などを有する荘園
当時、メキシコが注目された理由のひとつが、そうしたアシエンダを階層したホテルにユニークなものが多いことであった
歴史的建造物を改装してアマンにする試みは、1994年開業のミャンマーのザ・ストランド、2002年のカンボジアのアマンサラ、2005年のスリランカのアマンガラにも継承されている。
約2年間の空白を経て、エイドリアンは再びアマンリゾーツに復活した。
アジア経済の中心地:シンガポール
その象徴とも言うべきランドマークが、ベイエリアにそびえるマリーナ・ベイサンズ
藍色の空に浮かび上がる近未来的な偉容は、ニューヨークの摩天楼がそうであったように、世界の中心がアジアであることを誇らしげに宣言する。
ホテルを運営するサンズは、ラスベガスに本拠地をおくカジノホテルである。リーマンショック以降、ラスベガスのカジノ産業の多くが不調となるなか、ここシンガポールのほか、マカオなど積極的にアジアに進出し、好調を維持している。マリーナベイ・サンズは、躍進するシンガポールの象徴であると同時に、ホスピタリティ産業の中心が、アジアであることを象徴する存在でもあるのかもしれない。
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