『混沌』の中に存在する神秘の力【本:インドへの道】
インドのアンダマン・ニコバル諸島への旅路に選んだ本は、E.M.フォースター氏『インドへの道(A Passage to India)』(1924年)。住んでいても、結局よくわからなくなるこの深海の国、インド。
東洋と西洋、インド人とイギリス人、支配民族と被支配民族。この本の時代は、19世紀ヴィクトリア朝の大英帝国によって本格的に植民地化されていたときの話であり、今でも世界中の人々に読まれ続ける傑作である。本を読みながら、いくつか紐解いてみたくなった。
インドらしさとは。
英国人であるフォースター氏がこの本を書いた意図とは。
全体的に話は複雑で上記のような様々な人間模様や関係があり、消極的、長年の歴史から積み重なるあらゆる境界(宗教、階級、民族、政治、歴史、人種、階級、信条、カースト制度など)があるが、あらゆる境界を越えようと何とか試みることへの決意の表れのような感じもした。非常に現実的で、悲観しそうになる社会の中でも、なんとか人と人とが共存しあえる希望を託した。そして、それは今日になっても世に問うている気がする。
吉田健一(フォースターと会い、1930年にキングス・カレッジに在籍した)は『交遊録』講談社文芸文庫(2011年)、『英国の文学』(1949年)の最終章で、フォースターの文学について見事な紹介をしている。
『彼(フォースター)には主観がないのではなくて、彼の場合は、その質が問題なのである。彼のような態度で書くには、その人間の知性が始終その周囲の現実と微妙に祈り合い、これに柔軟に反応していることが必要であって、それは単にいわゆる、もの解りがいいことと違い、解ったことに対する解らないことの圧倒的に大きな比率の感覚をいつも失わないでいることなのである。我々が大人の世界に住んでいて子供の驚きから遠ざからずにいることの困難はそこにあり、その驚きとともにあることがフォースターの小説家としての秘密であると言える』
ミセス・ムア: "I like mysteries but I rather dislike muddles"
(私は神秘的なものは好きだが、混沌は嫌いだ)
フィールディング:”A mystery is a muddle”
(神秘は混沌だ)
日常的な現象の背後に探究の針を進めてゆく哲学的な神秘的傾向がある。
彼の「神秘は混沌だ」とは、彼がこれまでに受けたインドの印象、すなわち、理解できない、受け入れ難い、目をそむけたくなるインドを踏まえたものであろう。A Passage to India My E.M. Forster 1879 - 1970
ヒンズー教の輪廻転生
”Can you always tell whether a stranger is your friend?”
"Then you are an Oriental"
フォースターは真の友情の構築に向けての希望を次の世代に託しているのではないだろうか。
A Passage to Indiaというタイトルとは。
具体的な道路ではなく、抽象的な道、旅とかの意味なので、この題名はインドにはかならずしも到達するとはかぎらない、単に到達するための一つの道の模索という意味になる。まさに、インドにいても、つねにインドへの旅の途中。
1857年:インド大反乱(セポイの乱)
1858年:インド統治法(インド支配は東インド会社からイギリス政府に移行(間接統治から直轄地化))英国本国にもインド省が設立。
財政的略奪、英国のジェントルマンの次三男が高級官僚や軍の将校としてインド赴任。彼らがインドにおける支配階級を形成。
インド人医師アジス(回教徒)
アデラ:当地のイギリス人クラブの排他的なしきたりに批判的な、誠実で不器量な娘として描かれている。彼女は、インドのイギリス人と違い、インドに興味を持ち、その真の姿を知りたいと願う女性である。"I want to see the real India"
クラブから出ていく官立大学学長のフィールディング
大英帝国との悪しき面との決別の意志
各人の個人的な経緯を超えて各人が融合できるのは、神秘的な力によるしかないことを、フォースター自身は示唆したかったのでは。『インドへの道』は二人の別離で終わる。
長崎勇一
「合理的で分析的な西洋的の思想と、非合理の直感と包括性に立つインド的な理想とが対照される」とインドにおける文化的な対立にも言及。
・インド人を嫌悪するイギリス人
・イギリス人を嫌悪するインド人
・国籍的な観念から超越したイギリス人及びインド人
・融和を試みようとするイギリス人及びインド人