『赤い靴』(唐十郎)唐組若手公演。
唐組若手公演『赤い靴』。
二人の若い女性が一人の少女を誘拐する90年代に起きた事件をアンデルセン『赤い靴』に重ねて、唐流に織りなした作品。アンデルセン童話はそれほど反映されていないかも。『赤い靴』は、かなりショッキングなシーンがあって、それはそれで、読みこみつつ、童話に描かれた少女のことなどを考えていきたい。
今回、唐組の若い劇団員が上演する『赤い靴』は、演出に加藤野奈、若い女性の演出家が立つ。
単純な感想——台本(ほん)を捲る手が変わると、作品や上演の印象が変わるのかと…新鮮だ。たぶん印象だけでなく変化は大きいのだと。舞台美術もいつもと違って、ストリート風なアート感覚に溢れている。
物語は、事件の2年後。誘拐された韋駄天あやめ(大鶴見仁音)が、服役している誘拐犯の一人船橋茶々代(升田愛)と接見するところからはじまる。誘拐犯のもう一人・背宮(栗田千亜希)はすでに出所している。弁護士の蜜月羽(福良由加里)や船橋の車のローンを肩代わりするセールスマン瞬一(藤森宗)が絡み、物語は最初から唐風に渾沌としている。
最も印象的だったのは、良く唐十郎の書く少女とは違った感じで少女たちが舞台に居ることだ。唐十郎は良くあてがきをする。役者に向けて役者が演りやすいような(必ずしもそうでもないが…)、個性を出しやすいようなキャラクター設定をする。『赤い靴』は、1996年に書かれているので、書かれた少女と、演じる若手の役者たちとには、ずれがあるだろう。そのずれを過去の方向に埋めようとせず、ずれた部分に自分たちの今を、滑り込ませた様に思える。あやめ・大鶴見仁音と船橋茶々代・升田愛と、さらに背宮・栗田千亜希までが、クラスメートのような、どこかで価値観を一緒にしている、感覚の共犯者であるような…同盟感というようなものがある。
ちょっと話が飛ぶが、ゴーリキーに『二十六人の男と一人の女』という小説があるが、二十六人の男が一人としての意識体のようになって、一人の少女に向き合うという設定で、相変わらずロシアライクに、兵仕上がりのクラスの上の一人に浚われるという終わり方をしている。
全体がロシアの現在まで続く意識構造を顕にしているが、『赤い靴』を演じた/演出した若い女子たちは、この逆のような設定——三人の少女があたかも一人のZ世代的共意識/集団無意識知をもっていて、それが一人の男的な要素に向って立っているという風にも感じられた。男は唐十郎、少女は大鶴美仁音たち若手の唐組女性陣。男が書いた台本を書かれた少女の立ち位置から、逆照射する。
そのことが非常に興味深かった。唐十郎の書いた少女を、自分たちの生きている、今の時代の感覚で自分たちの一人の少女像を作っている。唐世代からすれば、何を考えているか分からない、見た目からは行動が読めない若い世代の…その内生を見たような気がした。唐十郎世界を理解し、それを演じるのではなくて、自分たちの少女感覚で、唐十郎戯曲を変成している。このベクトルの変化は重要で重大だ。たとえば創作人形の世界では、男が少女像を作るという嘗ての主流は、少女が少女を作る自分たちのために——に変わっている。女性が男性に対抗するだけでは表現する世界観は変わらない、クロスカウンターのように、逆照射する視点や表現感覚が必要だ。そしてそれがここにはあると感じた。