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ミテ第167号 追悼唐十郎 其のⅡ

『ミて』第167号について少し書いてnoteにしたら、新井高子さんに反応をいただいた。
その言葉にまた思うことがあって、さらにそれをメモのように書き記す。
書きながらおもっていること。

○泣く演出家・泣く役者

近藤結宥花さんの文章 、私も感動しました。唐さんは彼女の情の濃さが大好きだったんだと思います。自分の稽古場での宴会でも、結宥花さんがいると、劇中歌を歌うことを必ず所望し、そして、聴きならたいていは泣いて いました。(新井高子)

という言葉を新井高子さんからいただいた。

 えっ劇中歌を歌わせて、自分が泣くんだ! 少し驚いたけれども、すぐに、勘三郎さんのことを思い出した。
Noteのどこかに書いたと思うけど、新宿梁山泊の『四谷怪談』を見て、その幕切れで、見に来ていた勘三郎さんが、立ち上がって泣きながら「な、いいだろう、すごいだろう」って、梁山泊を褒めちぎっていた。勘三郎さんが座っていた客席から通路を跨いで、七之助、勘九郎(二人とも少年から青年になる頃)が坐り、その向うにりえさんが居た。そのりえさんに向かって、「来て良かっただろう、な、こういうの見なくっちゃ」と。
 事件があって、りえさんとは別れた報道がでてだいぶたってのことだった。目立たないように席を離して坐っているのに、たまらなくなって大きな役者の声で話しかけた。スキャンダルより芝居の今の気持ちか…と、そして自分で死ぬほど演じているだろう『四谷怪談』を他の劇団のちょっとキッチュな演出で見て、泣くのか!と、そのことに感動した。良い役者だなぁと。

 唐十郎もまた良い役者であり、良い演出家なんだろう。(そうなんだけど)自分の芝居に惚れて泣くってのは、最高だ。しかもそれは自己陶酔じゃなくて、微妙に客観性を入れてのことなので…近藤結宥花に歌わせて、で、感動する。聞いたら、他の役者にも歌わせては、感動していたということだ。自分の歌った劇中歌をテープかなんかで聞いて泣くのと、ちょっと違う。

 泣いて肩抱く演出家かそうでないかというのは、けっこう、芝居の本質部分に関わってくるかと思う。唐さんのようなタイプの演出家の芝居は、一回は、本人と話したり、話さないまでも打ち上げで泣いてる姿とか、暴れている姿とかを見て、体験しないと、いろんなことが分かんないなと思った。(寺山さんとは芝居後に何十回か、土方さんとも何回もあって話をしたり、打ち上げの場にいたりしているけど、二人とも、いつにもましてクールでロジカルだった。寺山さんはお酒飲まないしね。打ち上げは乾杯して逃げて、ケーキで乾杯していた(笑))

○人形と腹話術師とのやりとり。
ミテ第167号 追悼唐十郎 の中で、大きな示唆をもらったのが、唐十郎の明治大学初講義のなかでの「腹話術師と人形」という項目。唐十郎は「見る、見られる」という関係で、腹話術師と人形のことを語っている。
 僕は、『ビニールの城』をはじめとして、唐戯曲の中にある、腹話術師と腹話術人形を舞台で見るたびに、人形と人間の関係に微妙な異和感感じてきた。人形とずっと関わってきて…それは文楽のような人形まで含めて何かの折りに触れたり読んだり係わったりしてきたけれど…唐十郎の人形と人の係わりだけは、何か理解不能、入っていかれない感じをもっていた。どこにもない人形と人間の関係だ。

 唐十郎自身が、「見る、見られる」ということで人形をあげたときに、何かはじめて入っていけるかもしれない、入れないまでも異和感は払拭できるかもしれないという予感がした。

 これから、そのことを考えたり、具体的に何かの作業をしたりして、唐十郎の人形について、少しアプローチできるのではないかと思っている。答えは永遠にでないかもしれないが、接線なり補助線なりを手に持ちながら、どの辺かな…さし込むのは、線を引くのはどこかな…というようなアプローチはできるかもしれない。
 たぶん、この講義録がなかったら、まってく手がでなかったと思うので、『ミて』には大感謝である。ありがとうございます。




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