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中川多理展『白堊——廃廟苑於』ドキュメント②

 人形たちが、元映画館に運び込まれて並びを待っているとき、まだ、はっきりした展示の方向はまだ見えていなかった。
 「このこたちが決めるよ…」
どうしようかと追いつめられていながら、少しだけ呑気に構えていた。
床に、白堊の[堊]の字が描かれていた。奇しくも堊は壁であると…。
全開の、展覧会で、ビスクを始めた中川多理の人形たちに、[白堊]をつけたことが、今回の展示のリードする引用線になっていたことに気づいた。最近のことだけど…も。

 壁に新作のオールビスクの人形を並べる。入れるのか上に置くのか…まったくもって分からない状態で、それだけは、なんとなく決めていた。仮の形で床には廃棄されていた本のページで[堊]を描く。
人形たちにそぐわなければ、また零から設営の方向を建て直せばいい。
高さを出すための箱馬状のものも用意してあった。

運び込まれたのは
いろいろな災禍のあったヘリオガバルス(アントナン・アルトー原作)、ジャヤバルマン(三島由紀夫原作/癩王のテラス)——(このことについては、一部、中川多理さんがnoteに書いている)、そして新作のオールビスクの「白堊の肖像シリーズ」、「灰鳥」(あすか)のシリーズ、Petitのシリーズ、そしてオールビスクの「翡翠」「#コトリ3」と「薔薇色の脚」。
 場所を決めたのは人形たち、すんなりと良いところに落ち着いた。
心配することはなかった。設営はあっという間に、進んであとは、服の裾を整えたり、少々乱れた髪を治したり…。そうして火の入った茶香器を置いて完成した。

 それぞれの人形が物語をもって、あるいは物語から生まれているので、ただそこに居るわけではない。存在感があり、背景がある。物語と関与して、必然として生まれてきているので、デザイン的に配置しないで存在させるように居てもらえば、それが結果、絵にもなるし見る人との交歓を果たすことになる。
 
 物語だけでなく、歌から生まれている作品もある。川野芽生『人形歌集 羽あるいは骨』『骨ならびにボネ』は、中川多理の人形の一体一体、その個性に向けて詠まれた歌が集められているが、詠まれた歌から、また人形が生まれている。二人の本格コラボレーションは、今、しばらく目が離せない。この文章を書いている段階で、二人の作品の現在も未来も見えてはいない。進行中なのだ。相互侵犯しながら…。

 『白堊——廃廟苑於』 
は、大きくステップを切る初手になる予感がする。
ここには、いくつもの、何本もの発生線が見えるからだ。「骨を葩にして…」というところから大きなシリーズが生まれる可能性があるし、見る人に優しくない、存在することのために存在するという展示をためしたときに見えてきた、壁墓地の姿と、そこに居る生と死を跨いだような…そして生の方へ少し開いているような子たちの…これから人形として表現していくことの希代さ…。可能性はいくつもの方向に開いている。

 

PS
ごちゃごちゃ並べないで、二体だけすっと展示すればいいのにという、展覧会に関してのSNSを見た。
展示は、見た目のデザインで行なわれているわけではない。様々な要素__それは人形の意図(のようなもの)まで反映して組み上げられる。
何を言っているのだ——。云っておくが、思うのは自由だが、書くのは自由ではない。分かったようなことを言ってみたいのだろうが本当に止めて欲しい。駄目な言葉ほど世間に席巻される傾向がある。SNSは今や自分の呟きのメモ場ではない。書くなら記名、自分の名を明して書くべきだろう。

展示は公共機関のものではないので、人形たちは誰に頼まれたわけでもなく、自分たちの存在の、ある一面を見せるためにそこに居るのだ。作家が製作して、数日展示され、お迎えになって人の眼からは姿を消す。作家からも展示をしているディレクターのところからもだ。この貴重なそして二度とこのような設定で見ることのできない展示に対して、このような発言をする者を基本的に僕は許さない。最低でも、展示が終わってから発言すべきだ。

中川多理作の人形を見に来る方々にぜひひと言。
ご自分の目で楽しんでいって欲しい。展示のしかた云々があっても、人形たちは時代を変える程の魅力をもっている。何ものもの云うことを聞かず、まずご自分で、人形に向き合って欲しい。人形もまた名をもたないままの姿であなたを迎えようとしているのだから。

この記事を読んで似たようなことを書いたあったと、教えてもらった。

M字型に2枚?センス悪い。
2体でいいならそれだけでいいじゃん。
彼方に緞帳もあるし。
だけどこういう人たちが多いのかもなぁ。モチベーション落ちる(笑)


 

 




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