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[実践]小説教室/根本昌夫

 小説が書きたくなったわけじゃない。ただ少しだけ文章が巧くなりたかっただけなのだ。実際には、巧くなくても云いたいことが、そこにちゃんと存在しているような文章であればいい。そんなことをずっと思いながら果たせないままきている。
 文章入門を、何冊も読んだ。書くことは読むこと。どの文章入門書をにもそう書いてある。小説は読書によって成り立っている。そう明言する作家も多い。時間を見つけては読書をしてみたけれども、文章は相変わらずの悪文、巧くならない、表現できない。
 本をたくさん読んだので、代わりに少し読書が巧くなった。そこで気がついたのは、自分に合う本を読まないと頭に入ってこないということだ。頭や心に入ってくる文章は幾つもあるけれど、それでも[手]に入り込んでくる文章は今のところない。難しいものだ。文字を使った創作的なことがそんなに簡単に出来るわけはない。今まで長く生きてきて嫌っというほどの失敗例を見てきている。
 一流になる人は、それをするために生まれてきて、しかも若いときに創作のための決定的な出会いをして[ユリイカ]をしている。ダンサーとか役者とかボーカルとか、野球のバッティングとか、リードギターとか…。そこには生来のセンスも必要だ。
 ボクにはそうしたセンス、特に文章のセンスが——まったくない。呆れるほどだ。ボクの落ち込みぶりを見ている若い友人が、「書くつもりで読書するのは大事ですよ。身体に入ってきます。書けるようになるかは分からないけど。頭や心に入るんじゃなくて、身体に入るとだいぶ違います。ギターも弾くつもりで聞いていると、聞こえる深さが変わってきます。」と。
 なるほどね。読書は続けよう、書くことを少しだけ模擬的に念頭に置いて。
 ところで、質の良い読書、しかも愉しみもった読書は、ある流れにのった風景のよい窓から入ってくる。たとえば、ある人形作家のツィーター、デザイナーの机の上、元気のないボクを心配して何気に机に置かれた本。そして最近は、『プライムニュース』『国際情報ch』『文芸春秋オンライン』そして『文学界』(文芸春秋)。
 『文学界』は昨年5月に「幻想の短歌」、今年の5月に「幻想の短篇12編」という幻想の特集を組んでいる。幻想を齧ってきたボクとしては、気になるところ、幻想はこれから何処に向うのだろうか。『文学界』は、入門的シリーズも好きだ。『入門書の愉しみ』とか『書くことを「仕事」にする』という特集。ボクはけっこう切羽詰まっているから、零からの思考が好きだ。
 『書くことを「仕事」にする』には、芥川賞作家を輩出する小説講座という特集があり、最近では石井游佳、若竹千佐子という芥川賞作家を輩出した根本昌夫の講座の特集をしている。根本は、「海燕」「野生時代」の編集長を歴任して、島田雅彦、吉本ばなな、小川洋子、角田光代をデビューさせてきた。
 そこで、小説が書きたかったわけじゃない、ただ少しだけ文章が巧くなりたかっただけのボクは、[実践]小説教室○根本昌夫(PHP親書)を読みはじめた。なにかヒントがあるに違いない。
 ところが思惑が外れた。根本の講座は、新人賞なりをとって小説家になりたい人たちが集まってくる、素人を、新人賞レベルの小説家にする方法を伝授する——つまり、小説家になりたい講座であって、小説を書く講座ではない。
 ボクは武蔵美の一回だけやった特別講座ときに、学生から「どうやったら作家になれますか」という質問にこう答えた。「作家になりたいのなら、良い作品を継続して作れるようになる必要がある。だから一生継続できる創作の動機を作ることが先。自分は本当に絵を描くことが好きなのかとか…」と、答えた。絵画科なので芸術的な力量と表現が必要で、それを先に形成しないと4~5年で潰れてしまうということを伝えたかった。イラストレーションだとまったく異る技術と構え方になる。
 小説というのは、絵画にあたる。エンタメはイラストにあたる。絵画とイラストはどちらが上とかではなく、種族が違うものだと認識している。根本昌夫の云う小説は、純文学もありとだとは云いながら、エンタメ小説のことを対象にしている。駄目だ役にたたない。ボクは小説を書きたいとは思っていないが、本格的なことを語れる文章を書きたいとは、思っているからだ。
 ところで、『[実践]小説教室』からは、別の副産物を得ることができた。とても重要な視点だ。
根本と角田光代との巻末対談には、
 「希望を書かないとあとに残らない。今残っている小説はすべて希望がある。」と賞をとれなかった角田が編集者から言われ続けたことがあかされている。そして直木賞をとったとき、編集者や新聞記者に「角田さんが初めて書いたハッピーエンド」と称されたと、角田自身が、それが小説のコツだと言わんがばかりに紹介している。
 小川洋子に対しても、『博士の愛した数式』以降、どこか心温まる感じの小説を書くようになって、より多くの読者を得るようになる。その転換点になった作品だ——と根本は云っている。
つまり奇矯なもの欠如したもの、異形なもの(根本がそう書く)——そしてそれに対する偏愛ではなく、人間的に心温まるもの書くべき——暗い終わり方でなく、ハッピーエンドが良いと根本はアピールする。
 根本は、紛うことなくメジャー出版社のエンタメ小説製造者…より売れる小説家になるための指導者であったということが読み取れる。そしてそれが根本と根本の勤めていた大手出版社の小説に対するここずっとの姿勢なのだ。
 そうして、根本は、「良い小説には構造と重層性がある」と説く。彼の云う多層な仕組みとは、小川洋子においては、阪神タイガース愛による数式で、金本や江夏や村山の背番号や記念の日を使った、数字の組立が小説の中に仕込まれている。村上春樹、「海辺のカフカ」には、9.11と、ナカタ老人=大江健三郎と、二つのストーリーを下敷きにして書いていく。村上には読んだ小説なり、情報が何行か分あれば、小説にできるシステムがあると村上自身が行っている。根本は、読者には簡単に分からない、本文とは関係ない構造をもっていて、書き方にも本文と関係のない複層的な仕組みがあったほうが、良い小説…根本のいう良い小説とは、賞をとれて大衆に受け入れられる、すなわち売れる小説…になると、云っている。
 たしかに、日本人は学校教育で~は何を意味しますか、~は何を訴えようとしていますか、というようなことを無理やり云うことを訓練させられる。文学や創作物では絶対に其の答えがでないものを、より平凡に分かるように語るように教育される。答えは用意されていて、(試験で聞かれて答えがあるのだから)小説はわかるものだということになっている。
 そこに、編集者のように作家の傍で情報をとれる人間だけは知っていて、誰にも分からないシステムによって、確信的に書かれる文章の~意味するものが…分からないようになっている。深読んで分かる訓練をされている読者には、[分からない][不思議な確信犯的言動]の印象が植え付けられる。日本人、これにもの凄く弱い。分からないまま執着してしまうことにもなる。
 『[実践]小説教室』を読んで驚いたのは、編集者たちがそのシステムを使うことを作家たちに示唆しているということだ。(村上春樹はどうだか分からない。自分が編集者のようなところがある…から)小説は今や編集者たちの、賞とりレース、売れる小説作りのコントロールに収まりつつあるのだ。メジャーのやり方、そして賞のためにそれを受け入れていく作家、そんな作家になりたくて小説講座に通う、小説家予備軍。そんな構造をこの本は教えてくれた。

で、話はここで終りで良いのだが、ここまで書いてきて「ハッピーエンド」という言葉にある記憶が甦った。
それは…
「ハッピーじゃないのに、ハッピーな世界など描けません。夢がないのに、夢を売ることなどは…嘘をついてもばれるものです」これは、資生堂やレナウン、トヨタのCMを撮っていた時代の寵児・杉山登志の遺言である。(ボクも心を寄せていた。杉山は毎日毎日、1枚ずつ自分の自画像を描いていた。)その「ハッピーエンド」についてだ。
 この文章は、高校時代の同級生が、高校時代のある一日——体育祭の仮装演技を起点に、そのときの同級生の姿とその後の同級生たち描いた小説に書いている。
 小説は2001年に書かれていて、その一日は、1971年9月の最後の月曜日。神奈川のある県立高校で起きたことを、の30年の時がたって書いている。その同級生は、この小説を書くために小説家になったと思われる。早稲田文学の新人賞をとり、著作本もだして、この小説に臨んだ。小説の草稿は、『switch』の名編集長・新井敏記にアドヴァイスを受けていた。しかしそこで本にはならなかった。そこでボクのところに尻がもちこまれた。詳しい情報が欲しい。そして小説を書きあげたいと。
 体育祭の日の仮装演技には、ボクが係わっていたからだ。ボクはそのとき高三で、やったこともないのに、仮装演技の演出を任されていた。けっこう好き勝手にばらばらに生きていたクラスの男子たちが、ボクが頭をやるなら協力すると云ってくれてやることになった。(たぶん別のクラスメートに指揮されるのが嫌だっただけなんだろうと思う)
 そして、下級生を巻き込んで150名の演者が参加した、ボクたちの仮装演技は、学校全体の最下位に終り、男子は夜の海で酒盛りをして憂さ晴らしをすることになり、最後のキャンプファイアーならぬエンディングファイヤーを抜けて、海岸に向おうとしていた。(ボクはこの頃から酒が一滴も飲めないのだが…)で、そのとき様子を察知した、クラスの女子全員が自分たちも連れて行けと詰め寄ってきた。結局はみなを連れて夜の由比ヶ浜に行き、大騒ぎの酒盛りに最後はパトカーが発動し、ボクたちは、灯を消して、散会し、女子を一人一人家に送り届け、親に謝り、明け方にいつものメンバー10人ぐらいが江ノ島の駅に集合した。そしてそれから飲み直しをした。
 そんな一日のことを同級生は小説にしようと30年もかけて腕を磨いたのだ。
 とにかく、女子に連れて行けと言われた時の驚きったらなかった。なにせボクが通っていた高校は、当時、神奈川県では有数の受験校で(ボクは相当のできなしで学年で400番台での成績)、東大に70人、早稲田、慶応に200人以上の合格者をだしていた。(早稲田慶応はいくつかの学部で全国で1~2位だったと思う)女子の数は少なかったが、優秀な人ばかりで、ほぼ全員が150番より上にいたと思う。彼女たちは、お嫁にもらってもらえなくなるからと、東大を避けて、上智大学とか青山学院などに進学した。
 当時、ボクはそれを心から怒っていた。優秀な女子たちも、なりたいものは、(そしてもしかしたら親から強要されてのことかも知れない…が、)お嫁さんだった。あり得ない、何のためにこの高校に来ているんだと成績下位のボクは思っていた。(叔母が学生結婚で放校されたあげく、角川俳句賞をとって自立、俳人になっていた。その生き方が大好きだった。自分の好きに才能を発揮する女子が好きだった)
 その勉強はできる、けど、お嫁さんにしかなろうとしないような(そうでない人生を歩んだ人もいるけれど、高校生のときはそうだった)大人しい体制的な女の子が、ほぼ全員連れていけと…云う。そして男子のなかにもこない方が良いような…たとえば学年1位東大確定みたいなクラスメートが居たが、その男子たちも連いてきた。たぶん、こなかったのは一人が二人だと記憶している。で、その優秀で体制的な、女子の同級生が、その当時、ハッピーじゃない人生もあるのだ、あるいはハッピーエンドだけが価値があるものではないのだと、思っていたのである。
 自分が演出をした(振付はしていない)演技は12分。映画『ウッドストック』に影響を受けて、福田一郎のパックインミュージックにかじりついて投稿していた、自分のそのときが、もろにでてしまっていた。権力の象徴のような黒い鳥の王様を、ヒッピー然とした全員がやっつけるという、まぁたわいもないものではあった。だけれども全員が真剣だったし、ボクの台本の向こうにある、ロック、ベトナム戦争…学園紛争、そんなものも考えてくれていた。ボク以上に…。
 曲の並びも選曲もした。シカゴのクエスション67/68、ジミへンの「パープルヘイズ」…最後はジョン・レノンの「マザー」の鐘の音だけを流した。わざと決められた12分を跨いで、鐘の音を時間外に響かせた。別に1位を欲しいとは思わなかったけど、最下位とは信じられなかった。学校側にもPTAにも何も伝わらなかった。1位は確かお祭りだったと思う。お神輿を担いで、ハッピーな雰囲気。ボクたちのは、一旦悪は滅んだけど、そんな簡単じゃなく、実は何も終わっていないというメッセージが込めていて、それがレノンの鐘の音だった。

 今にして見れば、どうして最下位なのかはわかる。それは簡単。ハッピーエンドじゃないから。未来を暗く描いちゃいけないから。いや実は、根本昌夫の本を読んで分かった。はじめて分かった。

 小説の中にもそう書かれたが、ボクは無意識にこの日の敗北をクラスメートに侘びたいと思っていた。もちろん夜の海で謝ってはいるが、誰もそんなことは聞かない優しい奴ばかりだった。元々負けたりすることには余り、こだわらないところがあって、それはスポーツをやっていたからかもしれない。負けは、足りているものにも、足りている時にも、どんなときでもふっと訪れる。ただし足りていないものは、永遠に負け続けるものだ。
 この日の敗北を、何かで埋めるためにボクはずっとずっとイベントをしたり、演出をしたり、本を作ったりしていんじゃないかと、同級生に書かれた。たしかにその通りかもしれない、いやその通りだ。そして今もそれは続いている。だから自分がしたいことじゃなくて、誰かがしたいこと、みんながしたいことをやってきた。利他的なやり方で成功したいと思い続けている。
 で、その頃から思っているのは、ハッピーエンドじゃ終われないということだ。いやハッピーエンドなんかないんだし、表現をするということは、希求するものをみんなで作ると云うことに、幸せな終りなんてないんだということは、やり続けて分かったことだ。
 大学を出て、自分が係わった、寺山修司・天井桟敷も、笠井叡も土方巽も、ヨーゼフボイスも、ハッピーエンドではない。分かりやすくもないし、心が温まる作品でもない。確かに、アメリカの映画では終わらせるためのハッピーエンドがあるし、歌舞伎もどんなに凄惨な舞台でも、最後に明るい踊りをつけて、打ち消してお客を家に返すという、メジャーならではのルールがある。所謂、商業演劇もそうだ。
 しかし、だけれども商業演劇でも小説でも、ハッピーエンドをしない作家やディレクターたちがメジャーにもいた。たとえば、アトリエダンカンの池田道彦は、皆川博子の『阿国』をミュージカルで上演した。一生に劇団を組んでいた天井桟敷の若松武がでていたこともあり、四肢を失っても舞台に立った三代目田之助を書いた『花闇』で、親しくなった皆川博子さんの原作でもあり、皆川さんと並んで南座で見たことがあるが、その時に、二人に聞いた。メジャーでこの暗さはありですか?と。
 『阿国』の最後は、限りなく暗い。しかも負けて暗いのである。だけども、やせ我慢して、未来があるふりをしてその闇に向って走るというエンディングだった。皆川さんの、なんというか、芸能もの昏さの本質と凄みを掴んでいる筆致と、ナベプロで木ノ実ナナのマネージャーをしながら、天井桟敷に惚れてしまった池田の本気が組んだ芝居だった。『阿国』だから1回は歌舞伎をやる[イタ]の上でやりたいという役者の願いを、実現した数日の夢のような舞台だった。
 池田は、『阿国』は、会社を賭けた賭けだと静かに云っていた。暗い終りはやりたいことだと。アトリエ・ダンカン池田は、その賭けに勝ち、芝居は大入り満員でその後も興行を続けた。その頃から、ちらほらエンタメでも暗い終りをするものがでてきた。しかし時が経ち、バブルがはじけ、回復しかけてリーマンショックがあり…エンタメでないとやっていかれなくなり…そのエンタメに良心を入れようとして躓いて、アトリエダンカンはだいぶ前に解散している。

 ボクが帰依していた天井桟敷は、カーテンコールをしない。お客に対しておあいそは最後までしない。暗転で始まって、暗転で終わる。暗転があけるとそこには誰もいない。観客は宴の終わった暗い空間をじっと見つめ余韻を持って帰路につく。そこにはハッピーエンドも明るい未来もない。しかし先ほどもまであった暗い蠢く闇は、人の心の闇の闇でもあり、明るい社会といわれているものの、すぐ傍に、躓いたらどこまでも落ちていく闇があって、それを天井桟敷の役者たちの肉体を通じて覗くような作品ばかりだった。
 明るい世界がある限り、闇がその裏にあるのだ。寺山修司はその表裏一体が好きだった。自分も高校時代から、同級生が指摘するように、ハッピーエンドじゃない世界の中でも人は共闘できるのだと、そのことだけを実現しようとしていたのかも知れない。今日までも、そして少ないながらこれからも。

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