グレゴールの告白/フラッシュメモリー20220326/結城座『変身』
「なんだ、これは?」
夢ではなかった。
————机のうえの壁には絵がかかっている。ちょっと前、絵入雑誌から切り取って、かわいい金縁の額に入れたやつ。描かれているのは、毛皮の帽子と毛皮のボアをつけた女。(のちの研究によってはこの女は毛皮を着たビーナスであるとの説がある。『変身』という物語は、グレゴールが虫になった記述のすぐあとに書かれているのが、この女の絵の額の話。そしてこの絵は、フェティッシュな行為のなかにでてくる。変身はこういうところが面白いのである。)
「もうちょっと寝て、こんな馬鹿なことなんか忘れてしまうか」と考えた。
もう7時なのに、まだこんな霧だ。しばらく横になったままじっと息をひそめた。
物音ひとつ立てないでいると、あたり前の現実が戻ってくるのではないか…と
「なんだ、これは!」
再び目をさますとグレゴールザムザは劇場の舞台にいた。
「まったくなあ。夢ならもう少しましなところで虫になりたいものだ」「だいたい…」「この糸はなんだ。」
操られている13代目結城孫三郎に…。ザムザははじめて自分の立場が小説の中にいるのとだいぶ違うことに気がついた。夢なら覚めてくれる。しばらく待ってみた。目が慣れてくると向かいにいる老婆が、いつになく好奇心を剥き出しにしてこちらをじっと見ているのが分かった。老婆だけじゃない一度も見かけたことのない人たちがじっとグレゴールを注目していた。
「いやんなっちゃうな」
シュッシュッという声を上げながら三代目両川船遊(十二代目結城孫三郎)が、ステッキをふりまわす父親を操って迫ってきた。
ステッキが背中や頭にふりおろされた。痛い。痛いよお父さん。グレゴールは、そんな風には扱われてはいない。こんな風に書かれている。丘沢静也訳だと…。
父親は、————ステッキと新聞をふりまわして、グレーゴルを部屋に追い返そうとしたのである。むこう側では母親が、寒い天気なのに窓を開け放っていた。身を乗りだして、窓の外にぐいと突き出した顔を両手に押しつけている。通りと階段口のあいだを強い風が吹き抜け、窓のカーテンがめくりあがり、テーブルの新聞ががさがさ音を立て、何枚かがバラバラになって床に飛ばされた。
ね、カフカは文学でしょ。事柄だけつないでも『変身』にはならない。この後はこういうふうに繋がっていく。
容赦なく父親がせまってくる。シュッシュッと言って野蛮人みたいだ。ところでグレーゴルは後ろむきにあるく練習などやったことがない。実際、のろのろ後ずさりするしかなった。~いつなんどき、父親のにぎっているステッキが背中や頭にふりおろされて、殺されてしまうかもわからない。~そこで、恐る恐る横目で父親をずっと見ながら、できるだけ早く、実際にはじつにのろのろと、方向転換をはじめた。もしかすると父親もグレーゴルの正しい判断に気づいてくれたのかもしれない。方向転換の邪魔をしないだけでなく、離れたところからステッキの先であれこれリードしてくれたのだ。~。
ね、お父さんは、そんなに酷くないよ。カフカもお父さん好きじゃなかったようだけど、全集中全否定しているわけじゃないし、小説のなかに出てくるお父さんは、お父さんらしく愛と傍若無人を困った感じで振り回しているだけだ。単純に苛めたりはしない。変身は構造の物語ではない。情がどう表現されるかという物語だ。
そこに父親が、はいってくるなり「おおっ」と叫んだ。グレーゴルめがけて籠にいれていたリンゴを投げつけた。グレゴールめがけてだ。そして父親を操っている、そして結城座を操っている両川船遊が、観客に向かってこう言った。「さあ、ここがリンゴの投げ場所です。みなさんリンゴをグレゴールに投げて下さい」と。観客に予め渡されていたリンゴが、合図とともに舞台の上に投げられた、次々と。見ていた自分は最後列なので、リンゴは渡されていなかった。もしリンゴをもっていたら、両川船遊に本気でぶつけに行っただろう。観客はゲラゲラと笑いながら、リンゴをグレーゴルに投げつけた。
ちなみに小説では、こんなふうになっている。
————そのとき、からだすれすれに、なにかがポンと投げられ、飛んで墜ちて、グレーゴルの前に転がった。リンゴだ。すぐに2個目が飛んできた。グレーゴルはギョッとして立ちすくんだ。走り続けてもムダだった。父親が砲撃しようと決めていたのだから。サイドボードのうえにある深皿から果物をポケットぎっしりに詰めこんで、さしあたりは的をしぼらず、つぎつぎにリンゴを投げてきた。ちいさな赤いリンゴがグレーゴルの背中をかすめたが、そのまますべり落ちた。ところがその直後に飛んできたリンゴが、文字どおりグレーゴルの背中に食いこんだ。
実際に『変身』を読んでもらえば分かるが、前後の文脈からして、グレーゴルを部屋に戻そうとして、前はステッキだったけど、今度はリンゴで…行った。間違って一個があたり、それがのちのち致命傷になるのだが(それも実際はリンゴの傷だけじゃなく、いやそれよりも妹の一言が決定的なんだと思うが…)グレーゴルに向かって投げられた分けではない。
ところで、グレーゴルはこれって僕に対する苛めだよね。と思って哀しくなった。さっきまで黙ってみていたみんなが、僕にリンゴを投げつけて、しかもゲラゲラ笑っている。父親にも母親にもましてや妹にも酷い扱いを受けたとはグレゴールは思っていないし、受けていない。
自分では気がついていないけれど、グレーゴルは、フェテッュで変態だから、そして妹を思いすぎるほど思っているから…ちょっと問題が起きる。何せグレーゴルは、————グレーゴールは決心した。妹のところまで突進しよう。スカートをつまんで引っ張れば、伝わるはずだ。ヴァイオリンかかえて、ぼくの部屋においでよ。~もうぼくの部屋から出さないぞ~だが妹に強制する気はない。自分の意思でぼくのところにいてもらいたい。長椅子にいっしょにすわって、耳を傾けてくれるのなら、こっそり打ち明けるつもりだ。音楽学校に入れてやるね、って。~ぼくは、妹の肩のところまで背伸びして、首にキスしてやるんだ。(変身/カフカ/丘沢静也訳)
下宿人の前で演奏している妹の方にむかってグレゴールは向かっていくのだ。首にキス? 虫になった兄ちゃんが? そして妹はキレる。さすがの妹もキレる。それが道理、それがドラマ、それが物語である。
————このまままじゃやっていけないよ。~この怪物の前じゃ、お兄さんの名前、口にしないことにする。はっきり言うけど、お払い箱にしなきゃ。~「出ていってもらおう」と、妹が叫んだ。「それしか方法がないよ、お父さん。あれがグレーゴルだって思うのをやめるだけでいいんじゃないかな。そんなふうに思っていたことが、そももそも不幸のはじまりなんだ。」(変身/カフカ/丘沢静也訳)
このときまで、グレゴールはお兄ちゃんと呼ばれていたし、虫とか、あれとかは一度も呼ばれていない。家族は困っていただろうが、変身してしまったグレーゴルは、家族の一員だった。〈あれ〉と呼ばれたその日の午前三時、
————家族のことを、感動と愛情をもって思い返した。グレーゴルは消えなければならない。もしかしたら自分のほうが、妹より断固としてそう考えていたのかもしれない。こんなふうにからっぽで平和な考えにふけっているうちに、塔の時計が朝の3時を打った。窓の外が明るくなりはじめていくのは、まだわかっていた。それから頭が勝手にガックリくずれおれた。鼻の息が弱々しく流れ出た。(変身/カフカ/丘沢静也訳)
妹に見捨てられたから命が消えた。餓死ではあるのだけれど諦めの死であろう。
グレーゴールは、十三代目に人形の糸を切られドラマティックな死ぬを迎える。そのシーンで客は息を呑み哀れと思う。客席が水を打ったようになったから…。グレーゴルは、暗闇で先ほどゲラゲラと笑っている客に向かって、さっき僕を苛めて笑ってたのに、今度は、涙を流すのか…。
一つには、分かりやすい怪物の物語構造。人と違うから苛められる。異常だから攻撃される。阻害するだけして、最後ちょっと同情する。可哀想な怪物。実は心は優しいって結末。その時は、死んでるとき。もう遅いでしょ。大衆芝居の構造。日本人のメンタリティ。
日本人のメンタリティと云うのは橋本治。『浄瑠璃を読もう』『もう少し浄瑠璃を読もう』。簡単に云うと『冥途の飛脚』『女殺油地獄』は、ハードな実録物をぎりぎり劇化したもの…これを一回は覗き趣味で見ても再演ができず、物語をぐだぐだにして、簡単な善悪のものにしてしまう。良い男の役者が演じて、それを客が喜ぶという構造は後から作ったもの。誰かを悪者にしてダメ男を、拍手喝采の演じられるような物語に変えてしまう。それが今も生きている日本人のメンタリティだと橋本治は、本二冊、生涯をかけて書いている。僕の力量では短くレジメ出来ないから読んで欲しい。ハードな物語が人形と人形を扱う人、さらに歌舞伎の役者という人によって、ぐだってしまう経過はどんなだろうと思っていた。(その経過については橋本治書いていない。橋本は原型の浄瑠璃を聞くのが好きなのだ。もちろん文楽というなかで…)ああ、こういうことなのかと少し分かった。何だか理由もないまま、家族の中で困った存在になった者がいたときに家族がそれをぎりぎり受け入れて共存していくけれど、それが破綻する。実は、~だからという理由はない。事故のように何かが起きて、そして諦めるように息を引き取る。まぁ人生は本当はこんなもので、不条理でも分からないものではない。人形で芝居をするときには、簡単な構造と理由が欲しいのかな…。それはでもリンゴを投げて笑っていたんだから大衆も無知を逆手に、苛めたりするのは好きなんだろうし…。で、最期に同情して涙すれば、物語も現実も、ちゃんちゃん。というのが趨勢。そのなかでしかグレーゴルを受け入れられないんだろう。それは結城座と座頭の三代目両川船遊と作演出のシライケイタとが。
これは否定でも批評でもない。改めて言うけど、近松門左衛門の頃からつながってきた、そしてもしかしたら『雨月物語』の頃から存在した、物語のハードさを崩して活かし続ける日本人のメンタリティーに関することで…ここには苛めを許容したり、人をはぶることを許容したりする気持ちが日本にははびこっているという分析である。悲惨なことに目を向けない、向き合わない、自分のことと思わないという心理が、長く日本の物語の根底を流れている。それが人形に顕著なのはなぜか…などと考えることの多い舞台であった。
グレゴールはこう言うと思います。チェコでは家族に苛められたりハブられたりしなかったですよ。もっと複層的で現実的な家族のあり方を描いています。普通に。カフカは本の表紙に虫を使わないで欲しいといってそれを実現している。理由はそういうこと。変身した虫の物語ではないからです。グレゴールのそしてその家族の物語、心の物語ですから。