◎歌集・ミントコンディション◎光野律子/デザイナーの机の上に
デザイナーの机の上に本を見つけた。ミント色をした歌集だった。
◎歌集ミントコンディション◎光野律子
でもこのミントは、カードのトレーディングや美術品の二次販売のときに使う「新品同様」のミントだ。
そのことは、自身のあとがきの中にも書いてある。作者の新品同様の気持ちでリスタートする決意が込められている。
わが裡に黒胆汁の満ちくるや水無月の朝のメランコリアよ
弁護士が狎れた口調にわがな呼ぶ黙せば秋の夜は更けゆく
上の句、まさに自分も経験した。弁護士はクライアントのために働くにあらず。偉そうに口を効く。
三日月の真下のゆの字ぞゆかしけれ失職せる夕しばし佇む
光野律子が、コロナによって画廊が閉廊になり、それをきっかけに少し過酷な、いやけっこうに過酷な人生を歩むことになる。その気持ちの過酷さは、全部ではないがよく分かる。自分もギャラリーを運営していたから。
歌集には、辛いことが、けっこうな数歌われているが、不思議とその過酷な感じは伝わってこない。画廊が閉まることによって、起きる人間関係の軋轢もあるだろうに、それも感情としては描かれていない。
感情すれすれのところ、私の気持ちぎりぎりの外で歌を詠む光野律子がいて、ふっとことを客観的に見ている。辛過ぎることは、辛いと意識した段階で深い闇のようなところにもっていかれて、身体が動かなくなる。
歌集で一貫しているのは、ネガティブに対しての自分の立ち位置だ。ぎりぎりのところに立って、客観化しているような仮の位置で、言葉を紡ぐ。辛い感情を吐露するのではなく、辛いってこういうことかな…というような歌いかたをする。そのことで、光野は前を向いて立つことができたのではないかと思う。
光野にとって短歌は、短歌を詠うことは、過去現在から身を守るシェルターでもあり、未来を委ねる孵卵器でもある。
亡き父の故郷あたり機上よりクライン・ブルーの海底見ゆる
ひさかたの月の光に照されて運ぶ彫塑は両性具有
光野律子は、幻想文学好き、そしてその系列の美術が好き。
〈髑髏のランプ〉が詠まれているが、うちのギャラリーで展示していた相場るいじの陶器の髑髏ランプを思い出した。光野が勤めていたギャラリーは、ベルメールを扱っていたと記憶する。若い頃、自分も何度か伺ったことがある。
光野もきっと同じようなものを見て、若い時代を過ごしたのだと思う。なので、そのあたりの幻想的な怪奇的なモチーフは、抜いてある。自分にとって余りに日常的なので、言葉のインパクトが少ないのだ。
普通の読者には、素敵にあるいは驚きとして響くだろう。ぜひ、それは歌集を手に取って楽しんでもらいたい。
先住の猫を憚り抱かずにいた猫先に逝く朝露降りて
幾つもの岬を巡り聴音のクラスに通いし遠き夏の日
金魚鉢のぞく女は恋をすることにも飽きてマチスの絵のなか
もう誰も居なくなったよう鳥さえも葡萄畑に揺れるコクリコ
君の訃報聞くにはまばゆき日のひかり咲き盛る薔薇聖五月なる
赤赤と咲くアマリリスにハシブトが掠めて夏は投げやりに来ぬ
物はみな芥となりぬ月冴えて運河を照す引越し前夜
雪の日のペントハウスに白白と朝鮮薊の明かりが灯る
隅田川のほとりに灯るスカルランプあなめあなめと歌う声のす
心電図やっときれいになりし日に金色に灯す髑髏のランプ
ひとけなきオペラハウスにわれらふたり家族ごっこのあとの夕光
軒下のサーフボードに晩夏光差せば八十年代の痕
あちこちの社の破魔矢立てかけて母の寝室鈴の音せり
ましろなるすぱってぃふらむ咲き始む春塵かぶるピアノのかたえ
検品をすべきは肉の量なれど分銅に吹く美しき緑青
オーソドックスな短歌の歌いかたで、日常を破断することやものを歌っている。このオーソドックスな[歌感]がなんとも言えず良い。抒情が現代に短歌で生き延びるのだとしたら、こんな風にやはりオーソドックスな語法で、異を歌うかたちが素敵だと思う。ロマンティークなもの、幻想的なものは、さらっと、きちっと、すっぱりとした言葉の連なりで描かれて、人に伝わっていく。
光野の歌には、「かりん」の会がもつ、歌の姿勢が反映しているように思う。反映と言うよりは、少し遅く短歌をはじめた光野が、どん欲に真摯に馬場あき子の現在の歌い方を身につけたからなのだろう。光野は非常に「かりん」らしい手法を獲得した作家である。そして馬場あき子が、希求してなかなか表現してこなかった、現実を少し逸脱した異常な感じ、幻想的な世界…そういったものに立脚してもいる。
幻想的なものを表現するには、絵でも彫刻でも文学でも、かっちりとした表現形式が必要なのだ。光野律子はそれを手に入れている。「かりん」の中でも世の中的にもさらに飛躍していきそうな予感がする。;