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クソ真面目で頑張り屋さんで優しい。それがわたしの欠点だ。
我が子がわたしに言うことを
わたしは100%自分のこととして受け止めてしまう。
例えば息子にカレーが食べたい!と急に言われたら。
0.5秒でわたしにカレーを作って欲しいってことですね!と思う。
材料と心の余裕があればもちろん作ればいいのだけど、たまたまカレーの日でしたなんてことはないし、カレーか。。どうしよう。って気持ちがモヤモヤと心に積もる。
そのモヤモヤを我が子が可愛いという理由だけで帳消しにしようとする。
好きな相手の要望は叶えてあげたいという前提もある。母親からの無償の愛とか。そんなのが自分にもあると信じてる。
だからわたしの中の正解は材料がなくてもスーパーへ走りカレーを作ることだ。それは甘やかしではなく、大人だったら食べたいものをすぐに食べることが出来るから。
どうしても無理なら明日カレーにしようと言って息子が納得するまでは代案を出すし、実際に翌日は材料を買ってくる。その後しばらくは先回りしてカレーの材料を常備しておくだろう。
それで愛が伝わると思っていたし、それが出来るに越したことはない。
わたしの母はわたしや姉兄が食べたいものを聞くのが好きそうに見えた。いそがしそうでも叶えてくれた。わたしもそうなりたい。どうしようと考えているうちにお金さえあればココイチをUberできるのに!なんて謎の金銭ネガティブまで発動してしまう。
でも、
出来るor出来ない以外の選択肢があるとしたら。
へ〜。カレー美味しいよね〜とか
ママも食べたーい。とか
もしかして返事はそんくらいでもいいのか?
自分に言っていると思いすぎていたんだ。
まあ実際息子は大抵の場合作って欲しくて言っていると思うのだけど。
でも、軽い気持ちで言ってみただけだったかもしれない。テレビの中の食べ物が食べたくなるとか、大人だってあるあるじゃないか。
もうミルクを飲む息子じゃないんだ。
泣いただけで何を欲しているのか必死で考えて行動してきた。息子の目や声が訴えているのはわたしへ向けてなんだという考えが抜けていなかった。
これまでの自分は否定しない。一生懸命やった。
わたしはクソ真面目で、頑張り屋さんで、優しい。そんなわたしに言ってみただけとか冗談は通じない。言葉はわたしの胸に向かってまっすぐ刺さってくる。実際の言葉より大きく。
頑張っているうちは長所になりうるその性格だけど、限界を迎えた。もう頑張れなかった。
わたしは週に2回ほどのペースで自分でも手に負えないモンスターと化してしまう。ここ1ヶ月くらいの話。
怒鳴って怒り、なんでわたしをこんなに大変にするのかと正論に見せかけた否定の言葉で息子を傷つけてしまった。モンスター出現は時間にして2、3分だろうけど、息子にとっての衝撃は計り知れない。必要以上に怒ったくせに後から大泣きして謝るヒステリックフォロー付きだ。
わたしはとんでもない自己嫌悪と対処法が分からずにパニックになった。
部活の顧問やパワハラ上司が怒鳴るとわたしは無になって眺めていた。その怒鳴るという行為をまさか自分がするとは思わなかった。
なんでこうなったか分からない。全部合っているはずなのに。真面目に向き合っているのに。わたしは頑張ってるだけなのに。心から子どもたちを愛しているのに。
子どもたちが要望や悩みを言うと
それを叶えたり改善するのが自分の仕事だと思っていた。叶えるのが無理ならば断ったり諭したりすることも。
断るのも叶えるのもどちらも大変で、わたしはタスクに追われてしまう。
そんな時にも子どもたちは絨毯にBBQソースをひっくり返すし、
制服に牛乳をぶちまけてしまう。
でもわたしはクソがつくほど真面目だから
「子どもなんだからこぼすのは仕方ない。わたしが拭かなければ」と思う。でも「なるべくこぼさないで。」その気持ちはだんだんと「なんでこぼすの?」「何回同じことをやるの?」に変わっていった。そう思っては振り出しに戻る。自分が全て悪いような気がしてくる。子育ての尊さは分かっているのに、同時に人生が止まっている気がする。
辛かった。
「子どもはありのまま自分の気持ちを口にしているだけ。子どもは悪くない。」それが余計にわたしを追い詰めていた。
子どもが悪くないんならわたしは受け入れるしかなくなってしまう。無限のタスクを。
公園へ行きたい。
ケーキ作りたい。
ジュース飲みたい。
アイス食べたい。
そのお菓子は嫌だ。
百均に行きたい。
おもちゃ屋さんへ行きたい。
お風呂に入りたくない。
お風呂から出たくない。
まだテレビをみたい。
ご飯を食べたくない。
絵本を読んで欲しい。
ママと寝たい。
くっついて寝ても朝起きると離れてるのが嫌だ。
明日は公園へ行きたい。
聞き流せないわたしは
ブラック企業に勤めているかのよう。それに応える事が愛だと思ってしまっていた。ブラック企業には慣れているし。(笑えません)
それに息子は優しい。話し方も優しいし
王子様のように妹に接してくれる。
だからその分わたしに甘えてくれるとホッとする。甘えてくれないよりは甘えてほしいから、わがまま言えるのなら大丈夫。だからわたしは聞かなければならない。その考えはまだ自分にもあるけれど、それがわたしの危うさなんだと思った。
わたしは義母でさえ自分と相手を離して考えるのが苦手だった。義母が求める理想の嫁像に自分がならなければいけないと思ってしまう。義母が思い通りにいかなくて拗ねていると自分のせいだと感じてしまう。
でも義母の場合は他人だから、心底わたしは困っていて、「自分と義母を離して考えるのが苦手だな。」と自覚している。
子どもの場合は違った。
愛しているから離して考える必要性を感じていなかった。他人じゃないから。子どもたちには自分しかいないから。自分が聞き流してはいけないと思っていた。
でも、週に2回、2、3分の怒鳴りモンスターと化した今、
これまでの考え方は改めなければいけない。
(それが真面目なんだよな)
なんでも受け止めてあげると思っていたのに
わたしのところに生まれてきて可哀想とまで思った。
子どもの純粋な心に親からの否定の言葉は
どう弁明したって傷が残るだろうと思う。
でもしてしまったことは変えられないから。
今日はいつも真っ直ぐに胸に刺さる子どもたちの言葉を胸の前にシールドを作って跳ね返してみた。もちろん比喩です。
息子は公園へいきたい。公園がむりならケーキを作りたいといつものようにやりたいことを並べていた。
「ごめん、無理だよ〜〜〜〜!!!!」
それ以上何も言えなかった。
でもシールドはたしかに存在していた。
息子は拗ねて泣きながら2階へ行ってしまった。
息子が泣いたのはわたしのせい、いつもならそう考えてしまうけど
アホみたいな顔して
ママお風呂行くけど?とポカーンとした。
もちろん公園もケーキも今日は出来ないからごめんねとは伝えたけれど、いつものように何度も分かるまで伝えるのはやめた。
そうしているうちに息子はケロッとお風呂に来た。
なんだ。なんともなさそうじゃん。
わたしにはシールドがあるから
ケロッとしていようがいまいがあまり問題ではないけれど。それでももちろんケロッとしてくれていてホッとした。
公園に行けなくて、ケーキを作れなくて息子がシクシクしたり、不満そうなのはいつも通りだったけれど、自分は全く違っていた。
息子が満足そうかどうかよりも
自分がおだやかでいられることだけを考えた。
息子はシクシク泣いていたのに、わたしはすごく上手くやれた!と思った。
ポカーンと出来たことがすごく嬉しかった。途端に心に余裕ができた。
そうすると息子の願いも叶えてあげたくなった。
これまでもそうだったはずだけど、必死に叶えようとするんじゃない、余裕が生まれたら叶えるだけでいいんだ。
ケーキの材料はないけれど、
ココア蒸しパンの材料に生クリームも少しだけある。キウイもある。
お風呂とご飯が終わって時間を確認してから
いつものじゃないけど出来るよ!作る?と聞いた。
息子はすっかり忘れていたように過ごしていたけれどパァっと顔が明るくなった。
蒸しパンは息子のために作るんじゃない。
自分がやってあげたいから自分のために作る。その先で息子が喜ぶだけ。そんなことを考えながら蒸しパンを作った。
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わたしは自分のことも息子のことも大事に出来た。
息子もよく食べてくれて嬉しかった。
【出来ることだけやってあげる】ってわたしには難しい。どれだけなら出来るのかって自分の裁量だから。
息子のことが好きだから、いくらでもやれるはずだと思ってしまう。でも当たり前にわたしにもキャパがあって、それは愛では超えられないと分かった。
断ることも愛で、その先のことは息子の問題だ。
【全部は叶えてあげられない】ということも
親として教えていく。これからはそうして一緒に過ごしていきたいと思う。
わたしの中のモンスター、二度とわたしのところへ来ないでくれよ。