マクルーハンとデリダ
まえがき
今日は公衆電話の日ということである。
この中でマクルーハンについて、ちらっと触れているので、
付け足しておこう。さらにジャック・デリダにも少し書いておく。
マクルーハンについて
エモいという言葉があるが、マクルーハンはホットなメディアという言葉をつかった。
マクルーハンは、20世紀を代表するメディア理論家である。
斬新なメディア論によって大きな影響を与えた。
メディアはメッセージ
マクルーハンの最も有名な主張の一つである「メディアはメッセージである」という言葉は、メディアそのものがある種のメッセージを含んでいるということである。公衆電話で電話したということになれば、当然、その会話の内容だけでなく公衆電話というメディアそれ自体が社会や人々の意識に影響を与えるのである。
メディアは人間の拡張
テクノロジーやメディアを人間の身体や感覚の「拡張」であるとマクルーハンはいう、自動車は足の拡張、ラジオを耳の拡張である
ホットメディアとクールメディア
マクルーハン当時(1960年代)の分類でいうと、
・ホットメディア:受容者の参与性が低く、情報が詳細に提供されるメディア(例:ラジオ、映画)
クールメディア:受容者の参与性が高く、情報を補完する必要があるメディア(例:電話、テレビ)
ということになるが、テレビはもはやホットに分類されるのだろう。
グローバルビレッジ
メディアは、電子メディアの発達によって世界は「地球村」のようになると予言した。これは現在のインターネットの世界を予見したと言われ、この概念でマクルーハンの視認性がUPした。というのも、それなりに広告業界などでは有名な人物だったのだが、マクルーハンの言説はとても難解であったため、一時期は忘れ去られていた。が、インターネットの普及とともに、ふたたび脚光を浴びた形である。
グーテンベルクの銀河系
私がマクルーハンを知ったのは「グーテンベルクの銀河系」というこれまた難解な書物であった。グーテンベルクの活版印刷技術の発明が人間の知覚と精神に大きな影響を与えたというものである。
・視覚の重視: 活字文化により、人々の認識が視覚に偏重するようになった
・個人主義の台頭: 同一の書籍を多くの人が読むことで、個人主義的な思考が広まった
・思考と行動の分離: 文字を通じて情報を得ることで、直接的な経験から離れた思考が可能になった
活版印刷は、多くの人々が、同じ情報を共有できるようになったという画期的な発明なのであり、科学的な思考が広まる重大な変化であった。これにより、自由、平等、個人といった社会概念が生まれるきっかけになったのだ。
しかしながら、マクルーハンの鋭い眼は違うことを見つめる。
この発明により、世界の情報、聴く情報、文字情報が分断されたと指摘したのである。この分断により、現実世界と情報世界が乖離されたという。マクルーハンの表現では慢性的な夢遊病者に人々がなったというのだ。
さらに、無意識が発生したのもこの分断のせいにする。さらには口語文化が衰退することになり、距離をおいて考える視覚重視の認知環境に変化したという。
思索と個人主義の発生
一般には、内省を通じて個人の意識が高まると以下のような変化がある。
自己の独自性の認識: 他者とは異なる自分固有の考えや価値観に気づく
自律性の向上: 自分で考え、判断し、行動する力が育つ
批判的思考の発達: 既存の価値観や社会規範を客観的に評価できるようになる
この内省への促しが書籍だったというのであるが、
このnoteの読者様なら、誰かと似ているなぁと感じることがあると思う。
そう、音声中心主義を批判したジャック・デリダである。
ジャック・デリダ
声と現象
デリダの「声と現象」という本では、フッサールの現象学における「声」の特権性を批判した。声による自己現前の観念は、西洋形而上学の「現前の形而上学」だと言ったのである。現前とはそれそのものとか物自体とか、そういうことである。現前には意味がなく、ほかとの関係において意義を持つということである。意味の多層性や差延の中に散逸していくことに彼は注目した。
マクルーハンとデリダの理論は、以下の点で近似している
意味や効果が関係性の中で生まれるという考え
直接的な現前や絶対的な起源を疑問視する姿勢
メディアや言語の媒介性に注目する視点
意味の多層性や不確定性を認める態度
マクルーハンが活版印刷によって視覚が偏重されたと唱えるのと
同様な形で、デリダは西洋形而上学において「声」の特権性を批判する
自己現前の幻想:
デリダは、声による自己現前(自分の声を聞くことで自己が直接的に現前すると考えること)の観念を批判。音声中心主義:
西洋哲学における音声言語の優位性(ロゴス中心主義)を指摘し、これを脱構築しようとした。差延(différance)の概念:
音声と文字の関係を再考し、意味の生成が常に延期され、差異化されていくプロセスを示した。書き言葉の重要性:
デリダは、書き言葉が音声言語に対して二次的であるという考えを否定し、むしろ書き言葉の重要性を強調した。
ちょっと対照的ではあるが、考え方のプロセスは非常に似ていると感じた。
デリダとマクルーハン
しかしながら、マクルーハンはあくまでもメディア論の旗手であり、
批判の対象は全然違うともいえる。マクルーハンはメディアが人間の認識に与える影響を探求しているが、デリダは哲学的な意味生成のプロセスを脱構築しようとしたのである。対象は全然違うのだ。
マクルーハン対象としたメディアはデリダに言わせれば、所詮は現前である。グローバルビレッジも、精神の完全な現前を想定してしまうものである。メディアについて、マクルーハンが現前を示す一方、意味の完全な伝達や、現前は常に遅延(つまりは差延)の構造が内在して、メッセージは短絡的な伝わり方しかしないというだろう。
決定的に両者の違いを挙げるとすれば、それはメディアの亡霊性である。
マクルーハンがメディアによる直接的な拡張や統合を強調したのに対し、デリダはメディアの本質的な亡霊性を指摘した。つまり、メディアを通じて伝達される意味や存在は、完全に現前することはなく、常に「幽霊」のように不確かで捉えどころのないものとした。
デリダの思想の中心的概念である幽霊性は、現前でも不在でもない存在の様態を指し、両者の間を揺れ動くものである。これは、伝統的な二項対立や同一性の論理を攪乱する一種の憑依だ。幽霊性は、過去と未来が現在を汚染する分裂した時間性を含意する。コミュニケーションやメディアの文脈では、幽霊性は意味の純粋で直接的な伝達の不可能性を強調し、あらゆる意味生成過程に内在する痕跡とずれを浮き彫りにする。この概念は、意味の生成における差異と遅延の絶え間ない遊戯を強調する「差延」の概念と密接に関連しているのである。
幽霊とか亡霊(spectralité)とかという表現は、
現前でもなく不在でもなくそのゆらぎの性質を指している。
デリダが言いたかったのは つまり、”意味の不完全性定理”なのである。
そして、マクルーハンの文章の難解さを見て取れば、不完全性を射程に入れて伝わることを諦めているのかもしれぬ。(私から見れば似た者同士だ笑)