孤独な散歩者の夢想
まえがき
今日は散歩の日ということで以下の記事を書いた。
↑の記事では、大佛次郎について記事の大半を書いている。この日が誕生日だったからだが、やはり散歩の日らしく文学散歩をしてみようと思う。
散歩と文学
散歩と文学、特に漢詩との深い結びつきは、古来より文人たちの創作の源泉となってきた。この関係性は、単なる偶然ではなく、深い意味を持つものだ。
散歩のもつ意味
散歩は、身体を動かす以上の意味を持つ。それは、文学者たちの感性を磨き、創造力を刺激する行為だ。永井荷風は、その代表的な例だ。彼は東京の街を歩き、その印象を作品に昇華させた。
荷風の散歩は、作品の舞台を探る調査でもあった。彼は街の細部を観察し、その雰囲気を巧みに描写した。『墨東綺譚』の舞台となった玉の井を幾度も訪れ、その地域の息遣いを捉えた。これにより、彼の作品は現実感あふれる描写で読者を魅了する。
さらに、荷風は散歩を通じて、変わりゆく東京の姿を記録した。過去の記憶と現在の風景を重ね合わせ、独自の文学世界を築いた。この手法は、荷風文学の特徴となり、多くの読者の心を捉えた。
散歩がもたらす文学的効果
散歩は、文学作品に多様な効果をもたらす。具体的な描写力を高め、感覚的な表現を豊かにする。時間の流れを自然に表現し、心情の変化を細やかに描写することを可能にする。
散歩中の観察は、季節の移ろいや日常の些細な変化を捉える眼を養う。街中では、人々の生活や社会の変化を直に感じ取ることができる。これらの体験は、時代や社会を反映した作品を生み出す源となる。
また、散歩は思索の時間でもある。歩きながら、人生や自然について深く考える。この思索は、哲学的な要素を含んだ作品の創作につながる。
ここで、少しは大学ではフランス文学を専攻した矜持をみせて
ルソーをとりあげよう。ちょうど 孤独な散歩者の夢想という本がある
孤独な散歩者の夢想
『孤独な散歩者の夢想』は、ジャン=ジャック・ルソーの最晩年の作品で、
1776年から1778年にかけて執筆された。
この時期のルソーは、社会から疎外され、被害妄想に陥っていた。
かつての仲間たちを敵とみなし、孤独な生活を送っていたのである。
作品の構成と内容
本書は10の「散歩」から構成されており、各章でルソーの思索が展開されている。
主な特徴
自己省察: ルソーは自分自身について深く考察し、その思索を記録。
孤独の肯定: 社会から疎外された状況を逆手にとり、孤独の中に平穏を見出そうとしている。
夢想の重視: 散歩中の夢想や瞑想を通じて、自然な状態の自分を見つめようとしていた。
道徳的思索: 「善」や「徳」について深く考察している
主なテーマだが、
ルソーの頭のいいところで、まずは諦観があるのだ。
どういう諦観かというと、疎外をまずは受け入れたことである。
そこから生まれる平穏を見出し、これを肯定的に捉えたのだ。
孤独の豊かさを愛するようになったルソーは自己をみつめる時間の価値を強調するようになり、第5の散歩で、幸福とはなにかを追求している。
ルソーは単なる瞬間的な恍惚ではなく、自己の存在を感じる静謐な状態こそが真の幸福だと主張する。
第6の散歩では、善行と義務の関係について考察し、義務感からではなく
自発的に行う善行の価値を強調している。
文体も非常に個人的になり、内省的で、率直な感情や思索が直接的に表現され、人間性が出ている。自然描写も豊かでサン・ピエール島での体験が印象的に描かれている。
社会契約論だとか、教育論のときは、私はあまりルソーを好きになれなかったが、この作品はとてもよい。
ルソーにとって夢想は単なるファンタジアではなく、深い自己省察と結びついた精神活動であった、散歩中の静かな瞑想を通じて精神的快楽を得ようとしたのである。
第5の散歩で夢想にふけるときの自己存在感を、この世では我々の気を逸らし、この心地よさをかき乱すあらゆる官能的で世俗的なインプレッションから遠ざかっている人の特権であるとしている。
第7の散歩では、「いかなる個人的なものも、私の肉体の利益に由来するいかなるものも、本当に私の心を占めることはない」と述べて、自己を忘れて瞑想・夢想することの心地よさを見出している
ルソーは「人間の自由は、自分の欲することをなすことにあるなどと、僕は一度も思ったことはない。ただ、自分の欲しないことをなさないことにあると思っている」といって、自由の感覚は社会的束縛から開放されるときに孤独な夢想の中で最も強く感じると言っているのである。
あとがき
ルソーは、無神論者であった。百科全書の編纂にも携わるが、ジュネーブに教会を建てたことで、ほかの知識人から揶揄された。それで、隠遁生活するようになったのである。もともと聡明な人だったのであろうが、ちょっと知に出過ぎたところで反感も買ったのかも知れない。エミールの教育論などを読むとそんなふうに私は感じるのである。
教会を建てたことの揶揄に対して、宗教は人々の欲望であると反論している。実に巧みな反論であったと思うが、果たしてそれは今回みたような精神的静けさの中でも同じことを言うのかどうか。。。私も考えてみたい。