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今は亡き廃墟の名所・白雲楼ホテルの往時をしのぶ(1993年10月)

1990年代、建築の仕事をしていた20代の頃の趣味は旅行。特に泊まる場所にはこだわりがあった。クラシックホテル、もしくはその街の歴史にゆかりのある宿のいずれかと決めていたのだ。

1993年(平成5年)、わたしの住む名古屋からアクセスのよい小京都・金沢へ行くことが決まったとき、雑誌で文化人が紹介していた「白雲楼ホテル」がすぐに浮かんだ。

パンフレットより

いやもしかしたら、白雲楼ホテル泊まりたさに、わたしのほうから「金沢へ行こう」と誘ったのかもしれない。

なにしろ30年以上前のこと。細かいことは覚えていないが、とびきり素敵なホテルだったことは強く印象に残っている。

だから現存していないことについては、ただただ残念というほかない。


宿泊者だからこそ残せる記録


現在も白雲楼について書かれたWebページを見かけることがある。

しかし、宿泊者のページはほとんど見かけない。それならば、その生き証人として、往時の姿をここに残すのは多少の意味を持つかもしれない。

手元にあるのは90年代にプリントした写真と古いパンフレットをスキャンした画像のみ。画質が悪いのはご容赦願いたい。

いやむしろ、レトロ感が増すのも一興かも、と思いたい。


フランクロイドライトが設計した玄関


到着した夜に玄関を撮った写真。残念すぎることにほとんど写っていない。

手前に羽根らしきものが見えるのは、このライオンの像。

パンフレットより

玄関や建物全景の写真は、翌朝チェックアウトの際にも撮った記憶があるのだが、度重なる引っ越しやアルバムの整理などの際に失われたか。

パンフレットより


チャイナ風書院造の和室と憧れの欧風洋室


泊まった客室は、書院造の和室。少々オリエンタルな意匠が施されていた。

ちなみに、文化人が薦めていたのは洋室。
本当はその部屋に泊まりたかったのに、なぜか言い出せなかったわたし。
鈴懸すずかけの間」という名前まで覚えているのに!

パンフレットに載っていた「欧風洋室」(不思議な呼び方。欧風ではない洋室などあるのか?だがなぜかしっくりとくる)。ホテルの方の話では、ほとんどが和室で、洋室は数室しかないとのことだった。

この部屋が「鈴懸」かどうかは謎だが、確かにこんな雰囲気だったように記憶している


翌朝撮影した写真。しかし前日とあまり変わらないアングルで、部屋の全貌はよくわからず。

当時は今と違ってフィルムだから、建物だけ撮るのはもったいないと思って、ほとんどの写真にわたしが写っている・・・。

最近は仕事で写真を撮ることも多いせいか、建物のゆがみが気になり補正をかける癖が・・・これも補正した結果、日付が歪んている!

ちなみに補正前の写真。(こちらも載せたら補正の意味がないけど)


当時は「建物の写真なんてパンフレットや冊子に載っているから必要ない」と思っていた。でもそんなもの簡単に失われてしまうのだ。現にわたしの泊まった部屋の写真はどこにも残されていない。

温泉旅館らしい浴衣も記念に。(お目汚しになるので顔は隠した)

何気に後ろの電話が渋い


金沢の奥座敷・迎賓館の名にふさわしい重厚な館内


建物の随所に凝った意匠が施されている。ドアも素晴らしいが、その上部の曲線を描く下がり壁や欄間的な部分の装飾の見事さ。

客室棟からフロントに続く。
月日を積み重ねた艶のある梁や小ぶりのしゃれたシャンデリア。
布張りのシックなソファなど。
すべてが見事に調和している。

階段の踊り場。アーチ型の窓に斜め格子のステンドグラス。
カラフルではないステンドグラスがかえって落ち着きを醸している。

相川松瑞画伯による春夏秋冬の大襖絵

とにかく天井まで見事な装飾で、豪華絢爛。まさに加賀百万石な御殿。


白雲楼ホテルについて

宿泊した3年後の栄誉と挫折、一転して人気スポットへ

自分たちが宿泊した3年後の1997年(平成9年)6月12日に、白雲楼ホテルは「登録有形文化財」に登録された。ところがその翌年の1998年(平成10年)には営業停止してしまうのである。

たった4年後に営業を終えていたことも、その後廃墟ホテルとしてマニアに人気のスポットとなっていたことも、何も知らずにいた。

白雲楼ホテルの歴史は以下の通り。

《白雲楼ホテル》
1932年(昭和7年)桜井兵五郎により開業。北欧・南欧・日本の様式を巧みに織り交ぜた豪奢な外観で、本館玄関はフランク・ロイド・ライトの設計だったともいわれている。

70室の客室を持ち、かつては東洋一といわれていた。戦後はGHQが保養施設として接収。吉田茂元首相が来館し、昭和天皇・皇后が食事処として利用するなど栄華を極めた。

1946年(昭和21年) 宮本三郎画伯が食堂の壁画制作。
1997年(平成9年)6月12日、登録有形文化財に登録。
1998年(平成10年)に倒産。
1999年(平成11年)に競売開始が決定、2002年(平成14年)最低売却価格が3億5980万円で入札者なし、2004年(平成16年)最低売却価格8856万円で入札者なし。
2005年(平成17年)小倉商事が7391万円で落札するも活用を断念。
 小倉商事 → 金沢市湯涌温泉観光事業協同組合等4団体に権利を譲渡
 金沢市の調べで旧白雲楼ホテルが著しく老朽化していることが判明
 協同組合等 → 金沢市に旧白雲楼ホテルの建物と敷地を寄付。
2006年(平成18年)金沢市が建物を解体、登録有形文化財の登録抹消。

廃墟の名所として盛り上がっていた2000年~2005年頃の間に、建物は手の施しようがないほど老朽化してしまった。

金沢市は1億円かけて解体したそうだが、それなら競売が開始したころに1億円で買い上げてどうにかできなかったのだろうか。

フランク・ロイド・ライトの設計(かも?)、ですよ?

ちなみに、ライト設計の旧帝国ホテルの玄関部分はわが愛知県の誇る明治村に移築されて、現在もカフェとして利用できる。

https://www.meijimura.com/sight/帝国ホテル中央玄関/ より


加賀藩前田家の御湯~湯涌温泉の歴史

加賀藩の御湯であり秘蔵のかくし湯


湯涌温泉とは、石川県金沢市湯涌町、および湯涌荒屋町にある温泉。金沢温泉郷(湯涌、犀川峡、曲水、深谷の4温泉)を代表する温泉の一つ。

江戸時代に加賀藩主および一族が常用したことにより、「金沢の奥座敷」と称されている。外傷などに効くその効能から歴代藩主の「湯治場」となり、加賀藩の「かくし湯」として守られてきたという。

開湯は養老年間(718年(養老2年)奈良時代)といわれる。

発見者には諸説ある。

①一羽の白鷺が泉で体の傷を癒していたところを通りかかった農夫(紙漉き職人とも?)が、泉から温かい湯が湧き出ているのを発見した
②白山を開山した泰澄大師により源泉が発見された。温泉街の薬師堂には泰澄大師制作と伝わる薬師如来像が安置されている

加賀藩2代藩主前田利常(前田家3代目当主)と6代藩主前田吉徳は湯涌温泉を飲用すると重病が平癒したと伝えられる。

藩主の御湯の為一般庶民の利用は固く禁じられていたが、湯屋の主人がが加賀藩に掛け合い、庶民にも開放されたと伝わる。

明治以降も竹久夢二などの文化人に愛された。


竹久夢二が最愛の女性と過ごした場所


湯涌温泉は、美人画で知られる夢二が最愛の女性・彦乃さんと逗留し、甘い時間を過ごしたといわれる場所。

笠井彦乃さんは日本橋の裕福な紙問屋の娘で、女子美術学校の学生だった。夢二のファンで、日本橋呉服町に夢二が開いた「港屋絵草紙店」に訪れて夢二と出会い、交際に発展。

京都に移り住んだ夢二と同棲するが、結核を発症して父親に東京に連れ戻され、闘病の甲斐なく24歳で短い生涯を終えた。

夢二は彦乃さんを一番愛していたようで、立ち直るのにかなりの時間を要したとのこと。

竹久夢二「夏姿」(1915年)。彦乃さん(右)がモデル

夢二は温泉街を背景に彦乃さんを描いた。

竹久夢二「湯の街」(1917年)

もちろん夢二が訪ねた頃にはまだ白雲楼ホテルはなかった。

しかし甘い時を過ごす恋人たちはまさかその後ここがこんな風に栄華を極め、のちにその面影さえもなく廃れていくとは思いもしなかっただろう。

老舗温泉リゾートホテルの末路


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