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孤独から生まれた「流れ星の正体」の、強くやさしい光

「ROCK IN ON JAPAN 旧コンテンツ内 音楽文」より。



真っ暗な夜の底で、一筋の流れ星を見つけた。

そんな光景が目の前に浮かぶ、「流れ星の正体」を初めてきいたのは2017年1月27日のことだ。
公式ホームページだけで、たったの3日間だけ聴かせてくれるというBUMP OF CHICKENの歴史上の中でも異例中の異例の歌は、藤原基央の弾き語りという非常にシンプルな形態で私たちに届けられた。

この歌は、藤原基央が1999年10月から2017年3月までの約17年以上もの間雑誌で続けていたコラム"fujiki"(※元の名を藤原インテリ日記という)が連載終了するというタイミングで発表された曲であり、連載を読んでお便りをくれた読者へのお返事という役割も担っている。
実際、fujikiの最終回ではこの歌の歌詞が誌面に掲載された。
いかにも藤原基央らしい、律儀かつ愛情のこもった最終回だった。

そのfujikiの最終回と連動して公式ホームページに3日間限定で公開された「流れ星の正体」だったが、本当に流れ星のように、人々の記憶の中だけに残り、あっというまに消えてしまった。

─いつかまた聴こえる日がくるのだろうか、でもあの時に見られたらこそ意味があったんだよな、とても綺麗なメロディだったな、優しい歌だったな、また聴きたいな─
そんな風に願い、待ち焦がれたBUMPリスナーはどれだけいたのだろうか。

想いを馳せながらも二年三か月の月日が経ち、リスナーの間では伝説の曲扱いされていたころ。
「流れ星の正体」が再び私たちの元に帰ってきた。
2019年4月11日、藤原基央30代最後の夜のことだった。
初めて聴いたあの日と変わることなく、藤原基央の弾き語りというスタイルで、ついに二番も公開されたのだ。
さらには、2019年7月10日に発売される9thアルバム「aurora arc」の14曲目にも収録されることが決まっている。

彼が30代最後の日にリスナーに届けたかった言葉はなんなんだろうか。
彼が40代最初のアルバムの14曲目─アルバムの最後にリスナーに伝えたかった気持ちはなんだろうか。

僭越ながらBUMPのいちリスナーとして、流れ星の正体を紐解いて見えてきたものを書かせていただく。

さて、名は体を表すというが、BUMP OF CHICKENはいまだに、本当にチキン(臆病者)だ。
彼らは決して、『何事にも堂々として胸を張ってどんなことも怖くない前向きで明るくて無敵なバンド』にはならない。
(こう言うと色々と語弊があるかもしれないし、アンチかと思われるかもしれないが、むしろその逆である。)

例えば、流れ星の正体と同時期にできた楽曲『リボン』にも
「ポケットに恐怖が宇宙と同じくらい それぞれ持ってる宇宙と同じくらい」
というフレーズがあるように、彼らはいまだに恐がりながら歩いている。
それは、決してバンドとしてネガティブな要素ではないと私は感じている。
なぜならば、彼らがチキンでいてくれるからこそ、彼らと同じく臆病な私たちの理解者であるように感じるからだ。

流れ星の正体はその作成された経緯から藤原基央のパーソナルな部分を唄っていると推測されるが、この歌に於いての彼の恐怖感はこのように表されている。
「いつも迷路 終わらないパレード 止まったら溺れる
 ゴールなんてわからないままで いつまで どこまで」

スポットライトの下で、何万人のリスナーの前という華やかなステージに立ち、力強く生命力あふれる歌を届けていたように見えたが、そんな彼が見せた本音は“止まったら溺れる”という恐怖心。
結成23年目にして、30代最後にして、こうして自身の変わらない弱さを剥き出しにしてくれることは、心のうちを明かしてくれているようで、心の垣根を剥がしてくれたようでとても愛しい。
BUMP OF CHICKENの歌は心の距離感が近いとか、深い心の奥底にある自分ではひっぱりだせなかった部分に触れてくれるとか、いつもそういう感想を抱くのだが、それは彼のこういった性質所以であると私は思っている。

そして、彼は孤独についてもこう歌っている。
「足元をよく見て階段一つずつ どれくらいざわついていても ひとり
肩を擦るように避けながら世界に何億人いようとも ひとり」

前述したとおり、ステージの上では何万人の前で歌い、CDやメディアを通せばそれよりもっとずっと多い人々に音楽を届けているのに、彼は何億人に囲まれたとしても
「ひとり」
を感じている。

私はよく、(死ぬ時って(精神的に)絶対にひとりだよなあ、誰と暮らしても、どんなに思いあう人がいてもたとえ何かの運命で同時に死んだとしてもその時はひとりなんだよなぁ)というようなことをよく思う。
結局はみんなひとりだよなという気持ちになるのだが、そのくらいの絶対的で覆しようのない"ひとり"の感覚を、彼はふとした瞬間感じているのではないかと思う。
そしてこんなにも深い孤独をひとりで抱えているからこそ、同じく底なし沼の孤独を抱えている人々の心に共鳴するのではないだろうか。

しかしながら、彼はたとえ自分自身は"ひとり"であったとしても

「君が未来に零す涙が 地球に吸い込まれて消える前に
 ひとりにせずに掬えるように旅立った唄 間に合うように」
と歌うのだ。

自分はひとりでも、君の涙はひとりにしたくないと。

こんなにも圧倒的な孤独の中で、こんなにも深く人を愛する人は少なくとも私は見たことがない。
とてもやさしくて、とてもせつない人だ。

そして、彼の歌は
「ひとりにせずに掬えるように旅立った唄 間に合うように」
と歌っているとおり、そういう使命をもっているように感じる。

「旅立った歌」
とは、もちろんこの歌自身でもあるが、アルバム最後を飾る曲ということもあって、aurora arcに収められたすべての曲のことを指すようにも思えるのだ。
(もっというと、彼らが出したこれまでの楽曲すべてのことのようにも思えるのだが。)

さらには、
「命の数と同じ量の一秒 君はどこにいる 聴こえるかい
 君の空まで全ての力で 旅立った唄に気付いてほしい」
と。
彼らの歌は彼らの持っているすべての力で、どこかにいる私たちの元へ、まるで流れ星のように届けられるのだ。

BUMP OF CHICKENの今までの歌を振り返っても、たとえば
寂しい雨の日にベッドから起き上がれない時だったり、(※BUMP OF CHICKENのテーマ)
救難信号を出している深い心の片隅だったり、(※メーデー)
ここに居場所はないという涙にぬれた土の上だったり、(※fire sign)
涙や笑顔を忘れた時だったり、(※花の名)
晴天とはほど遠い終わらない暗闇の中だったり。(※ray)

私たちがどこにいても、どんな時でも見つけられるように、強い光を放ちながら、届けられるのだ。
それは、説明するまでもないが、BUMP OF CHICKENのもつ普遍性のひとつでもある。

aurora arcに収められた14曲も勿論同じように、私たちがどこにいたって、心を固く閉ざしていたって、そんな時にこそ届けられるように、私たちをひとりにしないように、そのために歌われていると感じる。
だから、アルバムの最後をこの歌が締めくくることはとても意味のあることである。

そして、この歌の最後はこんな言葉でしめくくられる。

「流れ星の正体を僕らは知っている」

と。

流れ星の正体を知った時に
藤原基央の感じていた"ひとり"は"僕ら"になるのだ。
同時に私たちが零した"ひとり"になりかけた涙も、"僕ら"になるのだ。

この歌のタイトルであり、テーマでもある
「流れ星の正体」とは一体何なのか。

その答えを、aurora arc に収録される14曲を通して見つけてほしい。

─本文中に引用したBUMP OF CHICKEN の「流れ星の正体」の歌詞は全て「 」を用いて記載致しました─

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