第369号『これはただの紙だ』
映画『桜のような僕の恋人』を観て号泣しました。上にあるツイートの先のFilmarksのレビューにも書きましたが、泣き過ぎて体重が減るほど嗚咽して泣きました。
よく「大げさだなw」と言われることもありますが、こんなにもみっともなく泣いたのは久しぶりです。
その日はもう一本映画館で映画を観たのですが(韓国映画『スピリットウォーカー』)、それを見ている時も頭の中で直前に観た『桜のような僕の恋人』のことを考えてしまい全く集中できなかったほどでした。(これは完全に観る順番を間違えた私が悪いです)
予告映像をご覧いただければわかりますが本作はいわゆる悲劇です。ヒロインが病気で死んでしまうということが決まっているラブロマンスものです。
だから泣くことはわかっていたんです。
そういう展開が待っていることも覚悟して観たんです。
この手の映画を観る時にはだいたい相応の準備をしてから私は観るようにしています。
大量のティッシュを用意しますし、完全にそれ以外(仕事他)の準備を済ませて「よし、そろそろ観て泣くとするか」くらいの心の準備を完了させてから観ます。
だから意外と「あれ、泣けない?」なんてことも多いんですよ。
過度に泣く覚悟(期待)をしてしまっているが故のおかしなハードルが心の中で上がっているのかもしれませんね。
しかし本作のように稀にそのハードルを遥かに超えて怒涛のような涙が溢れてしまうような作品に巡り会うことがあります。
本作『桜のような僕の恋人』は小説原作です。それを元に実写映画化されていて劇場ではなくNetflixでの独占配信映画となっています。(なので私は誰もいない土曜日に東京スタジオで自分の席で観ました)
主演の中島健人くんはプレミアイベントの舞台上で「撮影中に気絶しかけて監督に介抱された」と発言していますが、それがいったいどのシーンなのかは観た人にとっては明白かもしれません。(後半の嗚咽)
それぐらい原作小説以上に実写映画版のクオリティが高くて心が打ちのめされて涙を司る自分の中のダムが確実に決壊することになりますよ。
恐らくは私は向こう数年間は「オススメの映画ありますか?」と聞かれれば本作を紹介することになると思います。(たぶん数年は更新されることは無いという確かな予感がしますね)
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『泣くとわかっていても泣く』というこのハードルを超えてくるメカニズムって何かわかりますか?
相応の覚悟をしていても、来るとわかっていてもガード不可で確実に喰らってしまう必殺技のようなものをイメージしてもらえるといいのかもしれませんが。
それは『たたみかける』行為だと私は思います。
よく弊社内のスタッフと仕事中に話をしている時にもこの『たたみかけ』のニュアンスの話をすることがあります。
要するに「このままだと成立しない」という感覚の話で「ここまでやって初めて届く」というレベルの話になります。
「これはただの紙だ」
『桜のような僕の恋人』の劇中で写真家の師匠が主人公が撮った写真に対してこう言っていました。
「これは写真じゃあない、ただの紙きれだよ、君はこの写真に何を込めようと願って撮影をしているんだい?何も込められていない写真はただの紙切れなんだよ」
私は写真家ではありませんし写真の芸術性に関しても「綺麗だな」とか感じることはあっても正直そこまでピンときません。
が、この作中の師匠が言わんとしていることは伝わりました。
お客様が勝手なイメージを抱いて「Aと思わせておいてどうせBなんでしょ」と考えて備えている心に対して「Aと思わせておいてからのBの先のCからのDと更にその先のEとF」とでも言えばいいのでしょうか。
要するに作り手側が何重にも先回りして考えて魂を込めて初めて感動というものは生み出されるのだと思います。
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とあるゲームソフトを購入して遊びました。ニンテンドーSwitch版のゲームソフトです。日本のゲームメーカーが開発して発売されたゲームソフトです。
そのゲームソフトを遊びながらふとこの『桜のような僕の恋人』の劇中に登場した師匠の「これはただの紙だ」というセリフが頭の中をよぎってしまいました。
まぁ言ってしまうと非常に残念な内容のゲームソフトだったというわけです。(あくまで個人の感想です)
せっかくなのでそのゲームソフトの話をしながら『たたみかける』ということが一体なんなのかということについて語っていきたいと思います。
「これはゲームソフトのようなもの」
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