この世は儀式で出来ている
これは別に宗教的な意味ではありません。
この場合の『儀式』は仕事上での儀式を指しています。
順にいきますね。
先日こんなことがありました。
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弊社内の新人スタッフの中に目まぐるしい成果を上げている人間がいて、それは周りもみんな実力を認めていて久しぶりに「アイツはいいね、これから間違いなくエースになるね」なんて言われるほどの実力者でした。
あまりにも能力が高くそして同年代の他のスタッフへの指導も出来る(やってる)もんだから自ずとリーダー的存在となっていって、ほどなく開発の中心人物のひとりとなっていきました。
こうなると自他ともにその能力を認められた本当の意味での『未来のエース』という期待を持って私自身も接していたのですが。
ある日、当の本人からこんな意外な言葉が出てきました。
「え、私ってリーダー的ポジションなんですか?」
周りの人間も「またまたー、謙遜しちゃって。そんなの誰の目から見ても明らかにそうでしょ?実際に能力も高い上に他の新人の面倒まであなたは見てるんだから」と言っていたのですが
「え?誰からもそんなこと言われてないので全くリーダー的な自覚は無いのですが……」
と更に言われてさすがに違和感というかザラついた感じがして、早々に直属の上長に連絡して面談を実施してもらいました。
もちろんその面談の中で伝えたことは「あなたは能力も高く他スタッフへの面倒見も良いし凄く助かっているしこれからもっともっとリーダーポジションとして多くのことを任せていきたいと思っているので頑張ってください」ということだったのですが。
その面談をもってようやく本人は
「わかりました、ではこれからはリーダー的ポジションとしてみんなを引っ張っていけるように頑張ります」
と言ってくれたのでした。
わかりますか?
これが『儀式』です。
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これは特に昭和のおじさん世代である我々のような人間はより意識して気を付けなければならないことだと思いました。
「どー考えても実際の話そーでしょ?」とか「言わなくてもわかるでしょ?」という考えは通用しないということです。
「ちゃんと告白もしてないけど実際付き合ってるようなもんでしょ?」
みたいなことではダメだということです。(ちょっと例えが変ですが)
言わなくてもわかることでもあえて言葉にして理解&納得&承諾という一連の流れと儀式は必要だってことなのです。
思い返すと確かに若い時っていうのはこうした儀式の連続でした。
入学式・卒業式・開会宣言・選手宣誓、もっと言うと授業が始まる際の「起立・気を付け・礼」すらも儀式だったのかもしれません。
これらがあることによって気持ちの切り替えは間違いなく起きていました。
ただやっぱり学生時代なんかだと、どうしてもただやらされてる感が強かったのとそれすらも理解できないガキだったこともあって、大人になったら「意味の無いことは極力やめよう」の精神になってしまって儀式を軽視(簡略化)する傾向が強くなってしまっていたのかもしれません。
会社だと内定式・入社式・異動・辞令・決算報告・全社会議・方針発表会などがこれらの儀式に当たるのかもしれません。(節目的な意味合いも強いとは思いますが)
もっと言うと『打ち上げ』だって儀式のひとつだと思います。
ひとつのプロジェクトを終えてみんなで打ち上げやって「お疲れ様でした、乾杯!」ってやることで初めて『終わった感』が出ている気がします。
社内の日常の中のふとしたことでこうした儀式の重要性を再確認出来て良かったな、というお話でした。
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さて後半部分は【ゲーム業界における打ち上げ事情】の話をしてみようかと思います。(せっかく話題にもあげましたので)
実は意外と各ゲーム企業の打ち上げ事情は異なっていたりします。
あくまでサイバーコネクトツーの場合の話を中心にしつつゲーム業界の一例を感じ取っていただければと思います。
それでは張り切っていきましょう!
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ゲーム業界における打ち上げ事情
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