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「決断力=判断の正しさ」じゃないよ、という話

※この記事は音声入力で書いています。
文章を推敲する余裕も今はないため、多少の誤字脱字があってもお許しいただける方のみお読みください。

あなたは自分の決断力に自信がありますか?

ケンブリッジ大学の研究によると、人は1日に3万5000回も決断しているそうです。

今日食べるご飯、どんな服を着るかのような、健康や印象に直結するような決断から、言葉選びの一つ一つに至るまで。

私はよく他人から「決断力がある」「自分の意思がはっきりしている」と言う評価を受けることがあります。割と今もそうかも。

かの鬼滅の刃の鱗滝さんにも「判断が遅い!」と怒られる事はまずないと思います。

約30年間の人生、私の辞書には「優柔不断」という言葉は無く、最も縁遠かったのです。

しかしながら当然のことですが、決断力があるからといって、判断に狂いがないと限りません。

事実私は、進学や就職のような大事な決断さえも熟考することなく即決し、後々その決断が間違っていることが多かったのです。
それでも当時は、自分の選択は間違っていなかったと信じてやまなかったのです。
周りが悪い、環境が悪い。自分はたまたま実力が発揮できなかっただけ、本当に今思い返せば、他責思考の連続でした。

何かを決めると言う事は、責任が伴います。
同時に望まなかった結果になってしまえば、代償も伴うのです。

自分の意思があやふやな人の中には、他人に判断を仰ぐ、委ねる、と言う行動をする人も居られます。

それに、過去の私は自分の意思を強く持たない人を心のどこかで見下していた部分があります。

自分の意思も持てないなんて、まるで自分がないのと同じじゃないか。生きてて楽しいのかな?…なんて思ってました。

しかし今思えば、彼らの「他人に判断を委ねる」「他人の意見を聞く」と言う行動も、賢明な判断だと感じます。

何故なら、即決して失敗を繰り返してきた人生を振り返ると、もっとしっかりと考えてから行動すべきだったと後悔しているからです。

誰もが認めて評価する決断力の裏には、短絡的かつ、衝動的な思考が際立っていたのです。

つまるところ、私のゆるぎない決断力は、みどりのところは浅はかな考えの裏返しだったということです。

現在は、何か悩み事が起こった時は、出来る限り誰かの考えを聞くようにしていますし、判断材料にすることもあります。

もちろん最終的に決めるのは自分自身ではあるのですが、客観的視点を踏まえて参考にする、何でも自分で決めようとするのではなく、一旦物事を引いて考える余裕を持つ、これを意識しています。

レストランのメニューに1時間も悩む人はまずいないでしょうが、内定通知が出たときにこの会社に入ろうかどうか、本当にこの人と結婚しようかどうか。

このような将来やお金に関わる決断は、より慎重になるべきであると自分でも思います。

もちろんこのような事は考えなくても直感でわかる人の方が多いでしょうし、わざわざ言語化するほどのことじゃないかもしれません。

ですが、今日食べるご飯レベルに、就職や結婚のような自分にとって重要な決断さえも安直に考えすぎていた身としては、気づくのがあまりにも遅すぎました。

きっとこの辺りの感覚のズレは、元来の深く考えることが苦手と言う性格+発達障害(ADHD)の衝動性に由来するものなのだろうなぁと思います。

もともと何かを決めるのが早い割には決めるのが苦手、と言う二律背反的な特性があったのだから、これからの人生は独りよがりに決断を急ぐのではなく、一度引いて考える。これを意識したいですね。

物事を決めるのに時間がかかりがちな人。また私のように決めるのは早いけど、短絡的に考える。あまり後悔しがちな人。
どちらよりだったとしても、まずは「自分は決断するのが苦手」と自覚することが大事なのではないか、と私は思います。

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