自慰しないで!

 黒々とした雲が重たく空気を覆い、輝く星も月も何もかもが隠されてしまった夜。風が湿っぽくて、雨が降りそうだと思った。夜はなんだか肌寒いよね。最近はひどく暑くなってきたのにね。
 由香ちゃん。柔らかな手のひらがわたしの背中に触れていて、細長く白く美しい指がわたしの指と絡まっている。彼女はまるでわたしの唯一の味方のような微笑みで、支柱のような確かさでわたしの傍に立っている。わたしは神さまに肯定されたような気持ちになって、安心して、嬉しくなって笑っている。
 由香ちゃんは微かにピオニーの匂いがする。朝に振りかけた新しいヘアミストの、優しく香る甘い匂い。わたしはいつまでも嗅いでいたくって、由香ちゃんの髪に顔を埋めるようにして、由香ちゃんの香りに包まれた。幸せだった。由香ちゃんはくすぐったいみたいで鈴を転がすように笑っていて、背中を撫でる手のひらはじんわりと温かい。わたしの世界はここだけで完結しているみたいだった。わたしの世界に影を落とす、糞を除いては。

お前!


 肥溜めのような汚れた色の毛髪・濁りきった目玉を大層大事そうに持ち、金属製の鍋を力任せに引っ掻いたような声で喋るお前。お前がひび割れた唇を開くたびに泥水のような色の舌がのぞきギイギイ、ギイギイと不快な音がして、糞に塗れた獣が死んだ後の、吐き気をもよおす腐った匂いがする。
 お前と隣の男がそっと口づけを交わす。「こいつ、ほんとうにすごくって。おれ、ソンケイしてるんだ。」「おれも、おれも、おれも」
「おれも」は喘ぐように短く繰り返された。気持ちいいよ、とか、もっとして、という意味合いで発される言葉みたいだった。
 ソンケイという言葉が場違いに宙に浮いている。乾燥しきったカサカサの手のひらが慰め合うように重なって、松の枝のような指で探るようにお互いの指間腔を愛撫する。前戯のような馴れ合いの果て、自分の探し続けた王座はここであると言わんばかりに安堵した様子で、ここに辿り着くまでの長き旅路を思う。シワシワの顔をしてお前は嬉しそうに涙を流した。シアワセだって何度もつぶやいて、ソンケイしている男に下半身を擦り付ける。何度も、何度も、犬が媚びへつらうよう・臭い付けでも行ってるように陰部を擦り付ける。
 害虫の交尾みたいだった。ぶぶぶ、と汚い羽音がした。番となったお前たちは複雑に絡み合って、お互いが順番に許す者・許される者の立場になって触れ合った。脂だらけの指でベタベタと触り合ったから、犯された証拠を明示するように指紋が大量に残っていた。お前たちはお互いの分厚い手のひらでお互いの陰部を確かに握っていた。
 ソンケイという言葉が何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も繰り返されてあまりに耳障りなので顔を顰める。男たちは陰部を擦り付け・握り合い・口内を犯し合ってソンケイと繰り返し言った。体液の混じったソンケイは居心地が悪そうに男たちの間で反復して、男たちの声量が増すごとに速度を上げた。後半はもうほとんど泣き叫んでいた。男たちの「ソンケイ」はもはや助けて、とか、許して、とかそういった類の言葉に聞こえた。
 お前は苦しそうだった。整えられた眉毛が歪んでいた。快楽とも苦痛ともとれる表情で、目を見開いてこちらを見た。
「おれさ、どこからきたとおもう」
「おれ、どこからきたんだろう」
「おれをすごいっていってよ」
「すごい、すごい、すごいってさ」
 お前は小さく呻き声をあげ、目をぎゅっと閉じた。びくびくと震えると、そのまま大きな身体を捻じ曲げてしゅるしゅると小さく縮こまった。嘘みたいに小さく縮んでしまったお前の背丈はちょうど親指の爪くらいの大きさで、居酒屋の薄汚れた座敷のちょうど端っこにきれいに収まっていた。生まれたときからここにいましたよといった顔をしてお前は手脚をぎゅっと縮め、その姿はまさしく球体であって生き物として非常に惨めだった。
 じゃあまたね、と声をかけるとお前は寂しそうに息を吐いたのだが、わたしにはもう何を言っているのか何も聞こえなかった。

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