股山
奈々ちゃんの夫が死んだ。十月の、空気が一段と冷えた日だった。 中学校からの友達の奈々ちゃんは二十一歳になる頃に結婚して、その次の年に子どもができた。夫となった人は奈々ちゃんと同い年で、垂れ目の優しそうな男だった。生まれて一年もたたず言葉すら喋れない赤ん坊と、真っ白の肌に子犬みたいな瞳をした奈々ちゃんを残して、男は車に轢かれてあっけなく死んだ。 わたしと、奈々ちゃんと、その夫はその日まだ二十三歳だった。わたしは大学院で高分子の研究をして、奈々ちゃんは事務の仕事をして、その
からっぽの肉体に薄煙のようなたましいが宿り、「おんな」であって「こども」であった 恐ろしかった ひとがひとであること たしかにわたしを見ていること からっぽの肉体を揺らす ゆらゆらと揺らす からからと音が鳴る けらけらと笑う わたしは笑っていた わたしは幸せだった 日が落ちるとわたしは皮を剥ぎ肉体を抜け出して街へ出た 裸足のたましいがアスファルトを踏みしめた わたしはつつしんで不真面目な夜を享楽した 朝日が差し込む頃わたしはいつもここに還った 満月の光が降りそそぐ夜、わ
黒々とした雲が重たく空気を覆い、輝く星も月も何もかもが隠されてしまった夜。風が湿っぽくて、雨が降りそうだと思った。夜はなんだか肌寒いよね。最近はひどく暑くなってきたのにね。 由香ちゃん。柔らかな手のひらがわたしの背中に触れていて、細長く白く美しい指がわたしの指と絡まっている。彼女はまるでわたしの唯一の味方のような微笑みで、支柱のような確かさでわたしの傍に立っている。わたしは神さまに肯定されたような気持ちになって、安心して、嬉しくなって笑っている。 由香ちゃんは微かにピオ
20240520 久しぶりに日記を書く。思い返すと、大学院の最後の一年間はほとんど死んでいたようなものだった。ゾンビのことをliving deadって言うの、最初は意味わかんないなと思っていたけど「意思がないのに動くもの」って「生きる屍」としか言いようがないね。この一年、大好きだった映画も小説もあんまり触れられなかった。映画は観る時間の確保も場所もなくて、いざ観ようとするとどうしても集中できなくて、イライラした。小説は読もうとするとどうしてか目が滑ってしまって、内容が頭に入
20230321 「人間の本質とは暴力ですよ」気づくとわたしはそう口にしていた。目の前の男がなにかを言いたげに開口したが、ふいに口をつぐんでグラスからビールを飲んだ。「人間とは暴力の権化である」玉音放送のごとく脳内で響き渡る声、わたしは近頃暴力というものに近づきすぎただろうかと己を冷笑した。 坂口安吾の『桜の森の満開の下』『夜長姫と耳男』、谷崎潤一郎の『少年』、夢野久作の『志那米の袋』、もしくは遠藤周作の『白い人』あたり。それらの作品に共通するものに、暴力があると思う。暴力
ここから車で1時間くらいかな、わたしは運転が丁寧だからもっとかな。阿呆のような面をして、平凡な家、平凡な匂い、平凡な音、平凡な言葉に守られた平凡なお前。 わたしはお前の人生を容易に想像できた。お前の両親や、友人、恋人、そして絶望と希望。好きな映画、好きな音楽、好きなたべもの、すきなにおい、すきなことば、いわれたいこと、いいたいこと。 「お前って、なぁんにもないんだね」と言うとお前はくぅくぅと惨めそうに鳴いた。まじめとみじめって似てるよね。お前はひとりが嫌なんだね。 お前は柔ら
美味しいチョコレートを食べたい セックスと嘔吐を混同したい 「学がないのね」と言いたい 夢の中でも怒りたい 新しい香水を嗅がれたい 嘘吐きは殺してしまいたい 夜もコーヒーを飲みたい お父さんに褒められたい 美しい人魚を飼いたい いちばん遠い土地に行きたい 身体の毛をぜんぶ抜きたい 言われた通りに動きたい 彩乃の話をしたい 薬指だけ折りたい 「幸せとは」を学びたい 銀河鉄道に乗りたい なんにも知らないままでいたい ミルクの香りに触れたい 鈍色
20221201 山尾悠子の『ラピスラズリ』を読んだ。深夜の画廊から始まり冬眠者や召使い、漂うゴースト……長く冷たい冬が明ける瞬間。繊細で美しい文章で紡がれる幻想的な小説、わたしは小説にしか生み出せないものはこれだと思った。映画や音楽、絵画や演劇、すべての芸術にそれぞれの役割があるけれど小説でしか表現できない美しさもある。 コートを羽織るようになって、いつの間にかすっかり冬になっていた。わたしは冬という季節はあまり好きじゃなくて、それは多分この時期が一番死に近いからだと思
(Now, please begin to introduce yourself.) 卯年乙女座理系学問に恵まれまして、空っぽの女体と申します。魔法使いの母がわたしを孕んだ際にいくつかの呪いをかけ、心臓を持たない優秀な個体として生まれてきました。わたしは涙を流さず、笑うこともせず、怒ったこともございません。わたしはσ結合であって、そのほかの何者でもございません。わたしは……わたしは空っぽの女体。 わたしの強みは知能が高い点です。わたしはよく頭が回る……。 わたしの弱みは不安定
「マリアを聖母たらしめた要素はなんだと思う」 晩秋の風のようにその声は冷え、微かに怒りを孕んでいた。わたしはプリンのガラス容器を指で撫でながら目線を上げた。 「……処女受胎?」 わたしは教科書を読み上げるように答えた。赤線で引かれたように強調された要素。赤子を抱き慈しむような表情の女性を思い描く……処女の母親。 「そう、処女であること。無原罪であること。清らかな方法にしてイエスを産んだこと」 〝清らか〟を吐き捨てるように発音した主は名前を清といった。美しい黒髪を胸まで伸
20221114 若山牧水の歌集を人生のバイブルとしている。圧倒的に好きなのは初期で、小枝子に片想いしていた時期の『海の声』『独り歌へる』『別離』あたり。やっぱり人間というものは片想いとか怒りや悲しみとか、感情が自分の中に詰まったときに芸術的に良い状態になるよなと思う。短歌に浸りたい気分の夜なので、好きな短歌と、好きなひとの話でもする。 【君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ】 若山牧水だと、これが一番好き。「もし君が海の神様に愛されてしまって、言い寄ら
20220105 金井美恵子の『兎』を読んだときの感覚は今まで読んだどんな小説とも違っていた。自分の腹が切り裂かれ内臓を素手で引き摺り出されるような気持ちになって、幼少期のトラウマが眠っていたはずの場所から無理やり掘り起こされた。言葉にするのは本当に難しいのだけど、とにかく『兎』はそういう物語だった。わたしは『兎』の父親を知っている!わたしは可哀想な兎だ!恐ろしい父親に殺されてしまった惨めで無力な兎なのだ!妄言みたいだけどそんな気持ちが不思議と湧いて、心臓が苦しいくらいに早く
「そこでおれは思うのよ、これから先は英語が大切なんだって」 なんにもないボーイの指の間からケチャップがはみ出している。ハンバーガーをべちゃべちゃ溢しながら喋るこの男は名をなんにもないボーイと言って、齢20にして世界を見てきましたと言わんばかりに自信ありげに、声を張り上げて喋る。とにかく良く喋る。身長は162センチ、体重は60キロくらい。黒髪が少し伸びて、傷んだ毛先がぱさついている。頭の弱い両親の間に生まれて、ボーイとか馬鹿みたいな名前を付けられた。これからは英語が大切なので、
秋の日は釣瓶落とし、空気が冷えはじめ街ではコーデュロイだとかニットであるとかをよく目にするようになりました。わたくし名を空っぽの女体と申しまして、大変人気の電子媒体でございます。このたび最新版に更新させようという弊社の動きがありますので少々の痛みに耐えつつも腕を二本と両方の乳房、足の爪を引き剥がしてポリなんとかという新しく、環境にやさしいサステナブルな材料に変更致しました。そのようなアップデートを経てこの秋に新たに誕生したのがわたくし、空っぽの女体.jpgなんです。(手違いで
20211023 月に一度、自分が汚らしい怪物になった気持ちになる。全身が不快で、いやな匂いがして、無性にいらいらする。わたしの、女体に対してある種の嫌悪感を抱く理由としてその複雑さが挙げられる。いくつもの曲線によって構成され、謎の機能が多く、使い勝手が悪い。女でも男でもない生き物になれたら楽だろうなと思うこともしばしばある。女の子のことは精神的にはむしろ好んでいるけれど、身体的特徴…膨らみや柔らかさやそういった類のもの…を思い浮かべると恐ろしい気持ちになる。ああ、臆病なシス