研究が全然進まない理由
まえがき
いま現在、僕は社会人として働きながら、趣味で哲学研究を行っている。
素人が趣味で哲学研究をしているなどというと、研究職の方や研究職を目指す学生の方々に怒られてしまいそうではあるが、「勉強」と呼ぶよりも「研究」と呼ぶ方がシンプルにカッコいいし、自分の取り組みに一定の意義を与えられる気もするので、僭越ながらそう呼ばせていただきたい。
ちなみに、僕は大学で経済学を専攻しており、哲学は授業とゼミで少しばかり勉強した程度である。卒業後は独学で勉強しつづけた。大学院には行ってないので、本格的な学術研究がどのようなプロセスで進められていくのかを正直よく知らない。
したがって、僕の書くものは論文らしき体裁を採ってはいるものの、あくまでエッセイにとどまる。だからなおいっそう哲学研究と呼ぶのが躊躇われるのであるが、どうか温かい目で見守ってくださると幸いです。
研究テーマについて
さて、僕がここ3年ほど集中的に取り組んでいる哲学者がいる。20世紀のフランスで活躍したエマニュエル・ レヴィナスである。第一の主著『全体性と無限』において、〈顔〉という独特の概念を打ち出し、他者論に新たな地平をもたらした功績で知られている。僕がいま研究対象としているのは、まさにこの〈顔〉概念である。
ところで〈顔〉は、一般的にイメージされるような表情としての「顔」ではない。普通それは、個体の特有性ないし他者とコミュニケーションするためのメッセージ機能として、相互に「認識」しあうものである。だが〈顔〉は、自己と他者が「暴力」の関係に陥らないような仕方で関係する「倫理」を象徴するものであり、触れることはおろか見ることすら不可能である、とされている。〈顔〉はそのような一般的な「顔」の理解から著しく乖離しているといえるだろう。
このように〈顔〉は、数ある哲学的概念のなかでもとりわけ独特な意味合いを含んだ特異な概念だといえる。その形成過程には、 レヴィナスが幼少期にうけたロシア文学やユダヤ教思想の影響、さらには、師であるフッサールやハイデガーを含めた過去のさまざまな哲学者からの影響の複雑な絡み合いがある。それゆえ、〈顔〉の起源を特定の思想に還元するのはいささか乱暴な所作である。
だが、何事も取っ掛かりがなければ始まらない。乱暴な議論であることは重々承知しつつも、ここではいったん〈顔〉の端緒をデカルトの「無限」概念に求めたいと考えている。無限は『省察』にもあるとおり「神の観念」であり、有限者であるわれわれ人間の思考からつねに溢れ出るものとして、認識することは不可能である。
僕の考えでは、このデカルト的無限が、 レヴィナスの〈顔〉の起源とまではいえないが、すくなくとも契機になったと推測する(実際、『全体性と無限』のテキストでも〈顔〉=無限の等式が散見される)。要するに僕の研究というのは、デカルト的な「無限」概念とレヴィナス的な〈顔〉の関連性に着目するものといえるだろう。
実は数か月前からこのテーマに取り組んでいて、週末の余暇をつかって『全体性と無限』における〈顔〉概念の読解を続けている。だが、正直なところ、あまり楽しいとはいえない。理由はある。ひとつはまず、このテーマ選択に強い動機がないからだ。表題にもある「無限」は、デカルトの無限に由来するというのは何となく知っていた。だから、レヴィナスとデカルトは関係あるだろう、というごく普通の感覚はあった。両者を比較してみたら何か発見があるかもしれないと思いから、この研究は始まった。しかし、長期的なスパンで行う研究の動機としては弱かったなといまとなっては思う。
そしてもうひとつが、何か発見があるかもという予感が得られないこと。デカルトは『省察』において、無限を「語り得ぬもの」として議論から排除している。有限者が認知できないからこそそれは無限なのであって、つまり、人間ごときが無限(神)を認識できるわけがないだろ!と言って、最初から考察の対象外なのだ。それはつまり、人間の思考=哲学の領域では扱えません…と白旗をふっているようなものである。レヴィナスは、デカルト哲学では扱いきれなかったこの宗教的概念を、〈顔〉という倫理的概念に転換することで哲学に導入しようとしたのではないだろうか。『全体性と無限』という書物自体が、「無限」概念の「倫理」への導入の試みそのものではないか、というのが僕の現時点での解釈である。
ここからどう進めればよいのかわからないでいる。それは次の議論へと展開するための「問い」をうまく立てられていないからだと思う。しかし、これ以上深ぼって何か新しい発見があるような期待ができないでいる。問いを立てたとしても、堂々巡りになって先に進みそうもない。
まあ、研究というのは往々にしてそういうものなのかもしれない。一朝一夕で答えが出るものではない。粘り強く考える力が必要だが、僕にはその忍耐が足りないのかもしれない。しかし、僕はあくまで趣味でやっているのであるから、そんなに悶々してまで研究する必要があるのかとも思う。もう少し勉強すれば何かアイデアが湧いてくるだろうか。それを期待してよいのだろうか。わからない…。だから、いたずらに時間だけが過ぎていくくらいな、いっそ別のテーマに乗り換えてしまおうかとも考えている。
とはいえ、結果的にこのテーマに行きついたのには、何かしら理由があるはずだ。単なる偶然として片付けてしまうのは、これまでの思索の歩みを棒に振るようなものである。偶然は偶然でも、その偶然を掴み取ったある種の「必然性」はあると思っている。その意味で、このテーマ選択は、僕の固有性を示すひとつの重要な指標ともいえる。
そうだとすれば、いまは辛抱だと思って、このテーマに取り組むべきなのだろうか?ここで得た知見が新しい思索へと繋がるかもしれないし、そうでないかもしれない。とにかくいまは『全体性と無限』を読むこと、それが僕のいまの研究にたいする最大にして最善の策である。
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