レヴィナス『全体性と無限』を読む(8)― 「真理」について
範囲
第Ⅰ部 〈同〉と〈他〉
B 分離と言説
2 真理
本稿では、『全体性と無限』における「C 真理と正義」の「問いただされる自由」の読解にむけた準備として「真理」の概念について概観する。
「真理」はその語が示すとおり、客観的に常に正しい事実を指しているわけだが、「真理」が「真理」に値するには、「誤謬」があってはならない。いいかえれば、「真理」においては「無知や錯覚や誤謬の危険」が一切無いということが確証されねばならない。では、「真理」の真理性が確証されるためには、どのように考えればよいのだろうか?それは、《認識するもの》=主体と、《認識されたもの》=客体(真理)が完全に「分離」している、つまり「隔たり」をもつ関係にあると考えることによってである(このような関係をレヴィナスは「無神論」と呼ぶ)。前者と後者が「結合」してしまうと、後者は「無知や錯覚や誤謬の危険」が生じる。このような危険が「真理」の真理性を脅かすために、前者と後者のあいだには「隔たり」が要請されるのではないだろうか。
以上のように、《認識するもの》=主体と《認識されたもの》=真理が「分離」の関係にあるとすれば、前者から後者に向かうこと、すなわち「真理の探究」はどのような仕方で動機づけられるというのか?レヴィナスは主体が真理へと向かう運動を〈欲望〉と呼ぶ。この「形而上学的欲望は、まったくの他の物を、絶対的な他なるものを目指す」(同書 p.40)。要するに、主体が〈欲望〉を介して「絶対的に他なるものを目指す」運動、それが「真理の探究」という営みである。さらにレヴィナスはこの「真理の探究」を次のような関係だと記す。
〈欲望〉の主体が「絶対的に他なるもの」へと向かうのは、みずからの「欲求のうちにある欠乏」に由来するからではない。例えば、空腹から食物を求めるように、あるいは、喉の渇きから水を求めるように、「欠乏」から「絶対的に他なるもの」を欲するのではなく、「何も欠けていない」、すなわち、完全なものを欲するからである。レヴィナスはこのような完全性を〈無限〉と呼ぶ。この〈無限〉が主体の〈欲望をそそるもの〉として現れる。
〈無限〉の観念は、周知のとおりデカルトから引き受けたものである。デカルトは「無限」の「本性」を「有限である私によっては把握されない」という点に求めている。では、なぜ有限者である私が把握不可能な「無限」の観念を認識しているのだろうか?デカルトは次のように述べる。
ここにはやや屈折した論理があるように見える。デカルトは「無限」の観念を把握するのは不可能であることを認めている。しかし、「まったく完全はものではない」私を私自身理解しているということは、それは比較対象である「完全な存在者の観念」を私はすでに持っていることを意味する。「無限」の「実体」を直接に把握することは無理だが、「無限の観念」は私の不完全性によって明らかに有していると言える。そのような転倒したロジックが展開されているように見える。
だが、本稿で重要なのは、レヴィナスの無限概念は、デカルトのいうような無限の本性、すなわち、「私」の「思考」をつねに超えている=「他なるもの」という特徴を継承している点にある。本稿の議論に引き付ければ、「真理の探究」は「私」の「思考」をつねに超えている「無限」=「他なるもの」を〈欲望〉することであるといえる。デカルトにおいては、「私」と「無限(神)」の観念の、分離しつつも内包しているという奇妙な関係を、自我の不完全性(あるいは「有限性」)から証明するが、レヴィナスは〈欲望〉からそれを証立てようと試みているのではないだろうか。要するに「真理の探究」は、主体の「有限性」からではなく、〈欲望〉によって「絶対的に他なるもの」を目指す「超越」の運動のことであるといえる。