【研究ノート】レヴィナスのデカルト解釈②
1. 前回の内容
前回の記事で、私はレヴィナスとデカルトの関係を「無限」の概念を媒介させつつ示そうとした。そこで明らかになったのは、デカルトのコギトは、無限(神)の観念を主体に先行して受容することで成立している、ということだった。レヴィナスは、無限を直観するコギトのうちに「受動性なき受容性」《une réceptivité sans passivité》を見出したのであった。
2. コギトの問題点と可能性
レヴィナスは、デカルトがコギト以前に他者(無限なる神)を受容していると述べるわけだが、そのことが意味する最大の問題点とは、コギトを第一原理として展開された思考はすべて誤り(偽)となってしまうということである。
周知のとおり、デカルトは明晰判明な真理に基づいて学問を再構築するプロジェクトを自らの使命とした。そのプロジェクトの遂行にあたって彼が出発点としたのがコギトである。コギトは明晰判明な観念であり、そこから帰結される事柄もまた真であるのだから、真理の体系がつくられるはずである。
しかし、この第一命題が誤謬だとするならば、真理の体系自体が誤謬となる。このことは、真理体系の構築を目指すデカルトにとって、体系の根底を揺るがす致命的リスクであるといえる。なお、 同様の問題提起はすでにカントでも行われており、「思考するものはすべて存在する」という命題が実は根底に潜んでおり、そこからの三段論法によっていわゆる第一原理が導かれるはずなのだが、デカルトは先の命題を隠蔽して「我思う」の命題から開始してしまっていると指摘している。
このようにコギトには論理的難点が含まれるわけだが、レヴィナスはこれを批判するにとどまらず、肯定的な仕方で踏襲することによって積極的な意義を与えている。その意義とは、デカルト哲学における「倫理」の可能性である。デカルトの哲学はしばしば独我論的として批判に晒されるが、レヴィナスはそのような通説とは逆に、他者との倫理的関係の契機としてデカルトのコギト(と無限との関係)を解釈するのである。
以上のような見立てのもと、本稿ではまず、デカルトにおけるコギトと無限(神)の関係に注目する。その際重要になるのが、両者を媒介する「直観」概念である。直観の作用によってコギトと神は一体でありつつも分離しているという、ある特殊な関係を保持しえている。なお、その構図は『全体性と無限』においては「対面」という仕方で色濃く引き継がれている。
3. 直観の概念について
はじめにデカルトにおける直観の働きについて概観しておこう。『精神指導の規則』の第三規則には次のように定義されている。
上記の引用から抽出できるそうなポイントとしては以下の三つが考えられる。
第一に「精神の純粋さ」である。精神は「思考」を第一の属性とする実体であり、「延長」を属性とする身体からは区別される。デカルト的な心身二元論はまさにこの精神と身体の実体的分離から出発するわけだが、これににしたがえば、精神は身体から独立しるために影響を受けることはないため「純粋」と名指されているのだと考えられる。
第二に「理性の光」である。「理性の光」は「自然の光」とも呼ばれるが、つまり、理性は認識する対象を明晰判明に照らし出すという意味があると考えられる。『省察』の第三省察によれば、人間がみずからの有限性を理解するのは、その内部ですでに神の観念を内包しているからであるとされる。もしそうだとすれば、万能な神の観念を理解するコギトの理性は、確実に真であり、精神によって把握される観念はすべて確実に真である、ということになる。
そして、ここから帰結されるのが、第三の「直観の明晰判明さ」である。精神の働きである直観によって把握される観念は、確実に真(明晰判明)であるという。この理屈を何の疑問も受け入れるというのは、いささか無理があるだろう。実際、人間は判断を誤ることがあり、つねに理性的に物事を判断できるとは限らない。むしろ誤りを犯す頻度の方が高いとさえ言える。しかしながら、デカルトはこの人間の誤謬の発生について次のように述べる。
デカルトにとって意志は無限に拡張する。他方、知性は有限である。無限なる意志にたいして知性が有限であるために、神から与えられた(それゆえ確実に真であるところの)知性が誤った判断を下す可能性が生じる。つまり、理性自体に瑕疵を認めるのではなく、それを用いる人間の有限性に瑕疵が存するのである。人間はときに判断を誤るものの、その事実が人間理性の確実性をいささかも毀損するものではない。
それでは、なぜ有限である人間理性が無限なる神の観念を含むことができるのか?そのことについては前回も述べたとおり、デカルトは神の観念の内包は生得的であって、それ以上の説明を与えていない(というよりも、そこに説明を与えることが無意味なほどに明晰判明であるのだから疑問の余地はない、といった断言的なニュアンスが強い)。
彼にとって、神の観念がコギトに宿る実質的な説明が重要なのではない。重要なのは、理性は神によってその確実性を保証されているのだから、人間は自らの理性を正しく用いる術を獲得する必要があるという点である。意志と理性を統御する、いわば実践的見地における自己統治の方法をこそ彼は重視するのである。『方法序説』はまさにそのような自己統治の方法を説いたものにほかならない。
ここまでの内容をまとめてみよう。直観は純粋は精神の働きである。そして、コギトは神の観念を内包するゆえに、直観された観念は疑う余地がないほど明晰判明である。誤謬を犯すのは、精神=理性自体に問題があるからではなく、それを正しく用いられない人間に限界があるからである。真理へと至るためには、理性を正しく用いる方法の獲得が重要である。
それではここから、われわれは次のように問う必要があるだろう。直観の明晰判明さを肯定することは、一体、何を意味しているのだろうか?
さしあたりの応答として考えられるのは、それは思考不可能な領域の存在を暗に意味している、ということだ。コギトの本質はその意味からして思考にあるはずだが、その只中に、思考では捕捉不可能な神秘が突如として浮上するのである。
このことは次のようにも言い換えられる。すなわち、直観の肯定とは、ある種の神秘的経験への依拠によってのみ捉えられる観念が存在すると肯定することである。この神秘的経験とは、神から与えられたとしか表現しようのない、根源的な宗教的な経験である。ゆえにそれは思考に基づく説明を必要としないし、必要とされるべきでもない。
思考する主体であるコギトが、直観を通じて思考の外部=神秘的ないし宗教的領域に意図せず関与しているというのは、奇妙な事態といえる。ただし、それを理由として、思考の外部がすなわち非理性的であると断定するの早計だと言わねばならない。いくつかの先行研究によれば、デカルトの直観は、理性に裏打ちされた「知的直観」であり「数学的直観」であるとする見方も存在する。本稿でもそれらと同様に、直観を何の理性も介さない混沌とした知覚とは考えていない。むしろ、「思考」に基づくのとは別の仕方で「理性」を再考する契機を与える概念として、検討の価値が十分にあるものと考えている。
直観はコギトと神の媒介であり、理性と神秘の媒介であり、有限と無限の媒介である。コギトがコギトとして成立しうる限界点で、あるいは境界線上で、直観は重要な位置を占めている。
次回は、このデカルト的直観をレヴィナスがどのように引き受け、そして発展させたのかについて考えていく。先に断っておいたように、それは〈顔〉との「対面」という仕方で引き継がれるだろうと筆者は考えている。
参考文献
レヴィナス『全体性と無限』(講談社学術文庫, 2020)
デカルト『省察』(ちくま学芸文庫, 2006)
デカルト『哲学原理』(ちくま学芸文庫, 2009)
ベラヴァル『ライプニッツのデカルト批判 上』(法政大学出版局, 2011)
谷川多佳子『デカルト『方法序説』を読む』(岩波現代文庫, 2014)
谷川多佳子『デカルト研究 理性の境界と周縁』(岩波書店, 1995)
森有正『デカルトとパスカル』(筑摩書房, 1971)
山田弘明『デカルト哲学の根本問題』(知泉書館, 2009)
山田弘明『真理の形而上学 デカルトとその時代』(世界思想社, 2001)
『デカルト著作集4』(白水社, 2001)
『小林秀雄全集25 人間の建設』(新潮社, 2004)