自分を取り戻す旅の始まり
自分を取り戻す旅の始まり
要約したものが以下になります。
2016年、「自愛」という言葉に出会ったことで、「自分を大切にする」ことの重要性を初めて知りました。それまでの人生は自己否定に満ちていました。学生時代のいじめ、社会人になってからの職場の適応困難、そして書籍や心理学に頼りながらも自己否定感を抱え続けました。妊娠と結婚、そして夫の予期せぬ浮気と離婚、一人息子を育てる中での罪悪感と自己否定感に苦しみました。(苦しみはどこからくるのだろう?と考えました。)
母親の厳しい躾と宗教の強要による自己否定感も大きな影響を与えました。10歳で無理やり入信させられた宗教は、罪滅ぼしのための生き方を求め、自分の存在や発言を否定される毎日でした。学校でもいじめに遭い、高校を卒業して親元を離れた時には自由を感じたものの、宗教の教義に縛られる日々が続きました。(幸せとは一体なんなのか?と考えるようになりました。)
29歳で出産したが、夫の浮気で離婚を余儀なくされ、再び実家での厳しい生活を送りました。母親の半身不随、父親の癌闘病生活等家庭内のトラブルにも悩まされ、自己否定感は増していきました。
(平等であるとはどういうことなのか?と考えるようになりました。)
しかし、48歳で「自愛」という言葉に出会い、自分を大切にすることで、宗教や家庭不和の影響から解放され、やっと自己効力感と自己の重要感を取り戻しました。(ここがゼロに向かった始まりの起点です。)
正しい自己理解と感情の取り扱いを通じて、意識の変容が起こり、新しい視点や理解が生まれました。自己認識の拡大、価値観の変化、人生の目的や意味の再評価を伴うこの変容を通じて、自分を大切にすることの重要性を知り、活動を通じてその意義を伝えています。(マイナスからプラスを目指すのは骨が折れますが、マイナスからゼロに戻りゼロにいればプラスに転じるのは早いということを伝えています。)
もっと詳しい内容はこちら↓
自分を取り戻す旅の始まり
まえがき
2016年に「自愛」という言葉に出会ったことで、初めて「自分を大切にする」ことの大切さを知りました。
それまでの人生は自己否定に満ちていました。
学生の時はいじめに遭い、社会人になってからも職場に馴染めず、周りの人たちからどこか敵意を感じていました。その解決策を書籍に頼り、心理学を独学しました。感じ方や捉え方は、生い立ちから来ていることを理解し、自分のせいではないことを知り少しは安堵しますが、性格を直すとか、人生が変わるという変化もなく解決には至りませんでした。
そんな私でも予期せず妊娠し結婚することができましたが、夫は浮気をしていました。私は生まれてくる子どものことを考え離婚はしたくないと言いますが、離婚宣告されます。一人息子を片親にしてしまった罪の深さを思うと、自分なんかが生きてても意味がない、これまでもずっとそうだった、母親に支配され、母親の信仰する神に祈りを捧げても、人様のためにと奉仕を頑張ってもこの有様だ。我が子の幸せを奪ってしまい将来に何がある?きっとないだろう…、なのに神はなぜ私を生かしているのだろう?いやもう、神など本当はいないのだ。幼い息子を自転車に乗せて彷徨い、夜の踏切に飛び込もうとしましたが、大声で泣き叫ぶ息子の声に本当に我に返り、高速で走り去る長い貨物列車を見送りました。私はもう何もできない、誰も傷つけたくない、どうやって生きればいいの…という絶望とただただ恨みを抱きます。
社会という場所は、矛盾に気づいて考えもなしに発言してしまうと変人扱いされ嫌われることを覚えました。グレーを覚えろと言われたり、空気を読めば読んだで考え過ぎと疎まれ、涙もろくて、匂いに敏感すぎる、エンドレスな被害妄想の私は、自分でも精神的におかしいのではないかと思い現実から逃避をしていきます。周りから性格を直せと言われますがしかしどこをどう直せば良いかは教えてもらえず、自己卑下を繰り返すのです。自己卑下や自虐をしていれば自分自身でも反省しているのね、と受け取られると思ったのでそうしていました。何度か明るくてポジティブな人を頑張った時もありましたが対人関係は気を遣い疲弊していきます。社会という場所は常に居心地悪く、私が離婚した2000年頃はシンママは本当に白い目で見られ、企業は見下します。こんな状態ではまともに人と関わることが嫌になり、世界には「敵」しかいないと思っていました。
手紙の結びによく書いていた「ご自愛ください」の自愛という言葉は、他人にのみ使われる言葉と認識していたので、自分に対しても自分のことを労わるようにという意味があるとは想像したことがなく、どんなにか無知だったことを恥じました。ましてや、自分よりも他人様に仕えるように、他人様の幸せを祈ることが宗教上の教えでそれが日課だったため、「自分を大切にして自分の幸せを考える」なんてことは異世界の事のように感じて疑わしかったのです。
この世界は社会規範に合わせ自分を抑圧することで生きていける世界、周りは敵だと思いながらも息子が成人するまではなんとか生きよう、でも自分の存在は鬱陶しいからできるだけ早く死にたい、という自己防衛をすることで生きながらえた、毒親支配下の元宗教二世、シンママでHSS型HSPの私は、自分の気持ちを全て肯定し、自分を優先に大切にしていくと、半世紀もの間の宗教の教義でも解決できなかった幸福度の問題も、性格、お金、仕事、対人関係、人生観の悩みも消えてしまいました。
正しく自分を理解していき、感情の取り扱いを知り、自分との対話を日課にしていくと勝手に意識は変容していきました。
意識の変容とは、思考、感情、行動、認識のパターンが変わり、新しい視点や理解が生まれることを指します。これは深い内省から精神的な目覚めや変化を伴います。意識の変容は、自己認識の拡大、価値観の変化、人生の目的や意味の再評価などを含みます。
このことをもっと早く知っていたら、もっと早く人生を楽しめたのに・・・と悔やむ気持ちもをも糧にする自愛の真髄をお届けしたくて活動をしています。
もしもたった今全人類が一斉に自愛を徹底したら、一瞬にして争いはなくなり人間が真に求めている平和が訪れましょう。だとしたら?昔から言われているノアの方舟なんていりませんよね。それほどシンプルで楽なことなのに意識変容からわざわざ遠ざかり複雑にする。そして未だ重要視されない、どの教育の過程にもない…、ということは、人間は悩みたくて悩んでいる、それが分かっているけどそれも脱却できないで彷徨い歩くのが人生で物語です。
1 幼少期の記憶
私の生い立ちは厳しいものでした。幼少期から機能不全家庭で育ちました。厳格な母親は養女としてもらわれ乳母に厳しく育てられたからか私にも容赦ありません。物心ついてから抱きしめられた記憶はありません。賛成されたり褒められて記憶もなく、私の心に刻まれた記憶には、母親の厳しい躾と、それによって生まれた自己否定感です。
両親は常に喧嘩をしていて、父親は短気でした。テーブルがひっくり返ることもあり母親は謝っていました。家の中は常に緊張感が漂います。4歳の時に妹ができ母親の厳しい躾が始まりました。なぜ怒られているのかわかりませんでしたが、1メートルの木の物差しで叩かれることもあり、泣くことすらうるさいから黙れと許されず、母親の顔色を伺い、機嫌を取ることが日常になりますが、うまく母親の期待に応えられない自分を責める日々でした。外に連れられても挨拶ができないことを罵られ、学校では勉強もできず常に最下位、クラスメイトと遊ぶこともなく、孤独な時間が続きました。近所の◯◯ちゃんはできるのになんであんたはできないの?と言われ他の子比較され、私は自分が劣っていると感じるようになりました。
10歳の夏、母親の信仰する宗教に無理やり連れて行かれ入信させられました。内気な私が精一杯拒んでも「親の言うことを聞きなさい」の一点張りでした。集会所での挨拶や、宗教の教義に従うことは私にとって大変なストレスでした。家でも神様の本を読むことを強要され、母親を敬うことが求められました。教義に従うことで母親の期待に応えようとしましたが、心の中にはいつも疑問が残り私の心は次第に空虚になっていきました。
2宗教の影響と自己否定
この宗教の教義は、人は生まれながらにして罪があるとし、罪滅ぼしのために生きることが求められました。私個人の存在や発言は受け入れられず、家では常に母親の機嫌を伺い、宗教の教義に従うことが求められました。集会所で挨拶ができないと母親から失笑されダメ出しの連呼です。できるまで寄り添ってくれることはありませんでした。家でも神様の教えを強要されますが、夫である父親の悪口を私に吐露し、母親自身は片付けができないぐうたらです。そんな母親に感謝しなさいと促されてもできませんが、叩かれることも怒られることも避けたいために気を遣いました。
私はなんで生きているのだろう?と考えるようになります。
宗教の影響で見たいテレビは禁止され、クラスのみんなの話を聞いて羨ましがるだけ。人を大切にしなさいときつく言われているため、お金持ちの誰かさんの荷物持ちをさせられます。自信も勇気も何もないので言い返すこともできず奴隷のような生活の中、唯一許された漫画キャンディキャンディを読み物語に入り込むことが救いでした。
世間で言われていることが正しく、ロールモデルに疑いのない昭和時代でしたが、私の家では宗教の教義が正しいとされ、世間とは逆の考えを強要されますから、頭の中は混乱し常に矛盾が付き纏います。しかしその解決方法はどこにも見出せませんでしたので「自分がおかしいのだ」と自己を否定することで決着をつけていました。
3学校生活といじめ
中学でも、クラスメイトからどういうわけか無視されいじめに遭いました。バカ死ねブスと投げかけられても意味がわからず何も言えず孤立します。本当に誰も助けてくれません。部活ではテニス部なのに一人壁打ち。家に帰っても母親が怖くて言えませんし、学校に行かないなど考えられませんでした。早く大人になれればこの苦痛から逃れられる、時間が進めばいいのにと空想に浸ります。高校の修学旅行ではお風呂に入っている間に部屋に鍵をかけられ、夜中にやっと戻れたこともありました。こうした経験から、私はますます自己否定的になり、生きるとは苦だと人生への意味を見失っていきました。
このことが、周りのことなど何も考えられず自分だけが可哀想だと勘違いを生むことになったのです。けれども世界を見渡すと、貧困で身売りされる幼女、お腹を空かせながら餓死する子ども、地雷で四肢をなくす子どもたちの情報を目に憤りを感じます。私は日本にいて、家があり身を綺麗に保てて食べることもできる、バイト代を母親に取られても、周りから相手にされなくてもそれくらいどうってことないんじゃないか?私より可哀想な人はたくさんいるのだから、自分を可哀想だと思うのはやめろ、我慢しろ、頑張り続けろと自分にダメ出しをします。
4親元からの解放と新たな苦しみ
高校を卒業して親元を離れることができたとき、初めて開放感を味わいました。宗教の集会には行かなくて済む、お給料全てを自分の欲しいものに使える喜びを感じました。しかし、その自由は一時的なものです。欲しいものを買って楽しんでも、宗教の集会に行かないことで神に背いているのではないか…バチが当たるのではないか…やはり行ったほうがいいのではないか…、と神の存在よりも母親の怒る顔が脳裏をちらつき不安が襲ってきて行かずにはいられなくなります。そして社会生活の中で他人の評価を気にする自分に気づきました。自己肯定感がないまま、大人の世界に足を踏み入れた状態なので職場では仕事はひとまずできても、好かれない、どうしたら好かれるのかを考え、そして、そこにはいないはずの母親の目に怯え、感情を抑える日々が続きました。
29歳で息子を出産しました。しかし、夫の浮気で息子が3歳の時に離婚を余儀なくされ、退去までのたった2ヶ月で家を探し、仕事を探し、保育園を見つけるのは当時の正気のない私には考えも体力も及ばず、息子の生命を脅かさないためには実家に戻ることが最善だと、戻りたくない実家に戻りました。実家での生活は再び地獄の日々でした。母親は半身不随の障がいを盾に、暴力的でわがまま言いたい放題で、私は息子と母親の間を取り持つ日々を送りました。そうして私自身も一年ほど鬱になってしまいました。
5母親との確執と新たな試練
母親が半身不随になったのは私が息子を産む3年前です。
独身だった私は新幹線と在来線を乗り継ぎど田舎の施設まで毎月出向き、リハビリにも付き添い、できる限りのことをして自信喪失になりそうな時でも思いつく限りのポジティブな言葉をかけ寄り添ってきました。
私は母親からそんなふうに声をかけられたことはないし、私の意見はほとんど却下されてました。けれども悪夢のような幼少期は忘れてしまったかのように、私は母親に気を遣います。それなのに、、、
母親が、半身不随で上手く喋れないことと、体を思うように動かせないことの不便さから時にイラつくのはわかりますが、母親は4歳の孫よりもずっと大人で物事の判別は付くというのに、その認識は通用せず、孫であれば「可愛いから許せる」のかと思っていましたが、テレビのチャンネルが自分の思う通りにならない苛立ちから、4歳の男児に向かって包丁を突き出す事件が起こりました。この出来事をきっかけに母親を信用できなくなり、確執が始まりました。仕事で外出している父親は、母親の機嫌が悪いと私が母親の具合を悪くした、と私を責めます。母親が熱心に信仰する宗教の教義では感謝か下座してお詫びの二択しかありませんので、住ませてもらっている手前文句は言えません。私は教義の教えの通り、自分が生きている罪を詫びるために額を床につけて下座し、生きて罪滅ぼしの機会を与えてくれたことの感謝をする日々を一層強くしていくしかありませんでした。そうすれば息子の心にできてしまった包丁の恐怖心が取り除けるのではないかと考えたからです。あまりの理不尽さに、宗教団体も教義も信仰者も疑います。世界にいる貧困や戦争に苦しむ子どもたちさえ救えない団体って、意味があるのだろうか?と一度は息子を育てるために本物なんだと心を入れ替え傾倒した時期もありましたが、自分の母親が熱心な信者であるのに自己中心的な態度を良しとして幼児に恐怖心を植え付けてしまうようなことをする人間の血を引いていると思うと、青ざめていきますし、こんなことはおかしいと疑いは強くなっていきます。これ以上ない地獄絵図でした。
こんなことを話せる人もいませんし、同調してくれる人もいません。時々私は何をやっているのだろう?と孤独感に覆われ、またも存在価値が薄れていくだけでした。
そうやっていても日常は続き息子は成長していきます。離婚時に慰謝料を請求してももらえなかった不憫さと養育費が一年で終わってしまった屈辱を感じながらシングルマザーをやりすごす私と、学もなく思考も浅い、熱心な信者を頑張ってるけど病気が増え続ける祖父祖母、という変な家族の中で、私にできることは息子を精一杯褒めることです。褒めて育てよう!と決意し人前でもたくさん褒めまくりました。
そんな私に、食いっぱぐれないからとお金持ちとの再婚話を持ってきてくれてもちっとも心揺れ動きませんでした。母親の包丁事件があったからか他人に心を開くことはもうできませんでした。そんなことより息子の感性と成長と将来が大事でした。なんとしてでも幸せになってもらわねばならない!でも一方では、こんな私に何ができる?と希望を模索していました。
6息子との関係と新たな希望
息子12歳の時、当時の男性担任教師のスパルタ指導に辟易しながらも、翌年の中学入学に備えて担任の言う通り、自分一人できちんと準備できるように促していましたが、あまり身の回りのことができない息子に対し苛立ち厳しく接するようになりました。息子にとったら、今まで褒めてきてくれた母親が鬼の形相でヒステリックになり、安心できるはずの家は収容所のように病人のジジババに気を遣わなければならない、母も恐ろしい、学校も厳しい、私自身も父のガン闘病が加わったことの両親への気遣いと、担任教師の応対にキャパオーバーで、息子に当たるようになり息子はとうとう倒れて不登校になってしまい通院することになりました。また私は職も失い、環境を変えるために県外へ仕事を求めました。家族で私以外全員病院通いをしていて、こんな状態のどこが神のご加護があるって言うの?何が宗教だ、お詫びだ感謝だ、どこが幸せだ……と人生が重くなっていき悲観しました。このまま息子を閉鎖的な田舎の祖父祖母と同居させていても息子のためにならないと思い立ち、親戚から「お父さんを置いて引っ越すなんてダメだ」と文句を言われても、父親と息子を天秤にかけ、息子の将来が大事だと周りを突っぱねて、クリスマス前日に県外への引っ越しを決行しました。それから2ヶ月ちょっと後に東日本大震災がきました。今思えば「直感」が誘導してくれたのだと言えます。震災のあった翌年に父は話すことができないまま他界しました。葬儀の最中信仰者たちが父にお線香をあげにきてくれましたが、俺はまだ長生きするから、などと言わなくてもいいことを言い残し、幹部と言いつつもやはり人間には変わりないと思わせる非情な態度を示してくれたおかげで、だんだんと宗教心は薄れていきました。それから数ヶ月後どこかから父の声がして「宗教を辞めても大丈夫だ」と聞こえた気がしたので、教本も全て燃えるゴミで処分しすっぱりやめることができました。
引っ越した新しい環境でも息子は馴染めず、中高と不登校が続きました。私はそんな息子の将来をまだ悲観し、親子心中を考えるほど追い詰められていました。息子は自力で警察に助けを求め親子が一緒にいるのは危険だとし離れて暮らすよう、支援の手を借りました。息子の成長を見守りながら離れて暮らすと、私たちの関係は次第に改善し始めました。
私の悲観的思考は誰も幸せにしませんでした。なんの得も富ももたらしません。助けを求めることもできない、自分を変えることもできない、我が子の心を守ることもできないで死にたいと思う自己否定癖は全てを狂わせます。
息子の心の友は音楽でした。様々な楽曲が彼の救いになっていました。不登校で長く大学病院へ通院していましたが、カウンセリングを受けても心の救いにはなりませんが、音楽は彼らの生き様、伝えたいことが音になって現れるので共鳴したのでしょう。18歳以降は都内へ移してカウンセリングを受けましたが、臨床心理士のドライな診察は受けると余計に傷つくほど愚かな対応でした。その経験は情報が氾濫する現世界で自分にとって必要なものと不要なものを分ける取捨選択の「目を肥やす」ために必要なことでした。どんなに名の知れた優秀な大学を出ているカウンセラーといえども、詰まるところ、心の救いは相性なのです。
このことで人生はゆっくりと少しずつ、悲観した将来に光を見出せていきました。息子は就職したり社会と接点を持ち成長し続けています。好きな作曲で自分らしく生きています。私も自分自身を見つめ直し、スピリチュアルや心理学をもう一度学ぶことで自己肯定感を取り戻す努力を続けました。それが2019年のことでした。
7自己肯定感の回復と新たな人生
息子との関係が改善されるにつれて、私自身も成長しました。
自愛を継続することで、親子の関係性が驚くほど変化していくことを体現しました。もちろん職場でもパートナーとの対人関係も良好になりました。
他人を敵視するのは、人に心を開けないから、それは自分に心を開けないことで自分を信用していなかったからです。
性格を直せと言われ続けても自己否定をするしかない自虐癖も、屈辱感も、長年の宗教観、母親から受け継いでしまった人生観の「慣習、思い込み、決めつけ」からだったことがわかりました。自愛の継続で、社会的な「常識、制限、ルール」さえも、ほとんど私には無用だったと、意識の転換が起きてきました。
自身が意識の上で考えを囚われから解放して昇華していくことは物事を捉える視点という視座が広くなり、同時にそれは破壊と再生を意味し、「新しい価値観と自分の軸の形成」を表します。視座が高くなるにつれて多角的な観点はどんどん広がっていきます。これまで否定的な捉え方をしていたことに疑問を持ち、フラットに紐解いてみると、否定的な捉え方をしていたのは自分の頭の中だけだったことがわかります。そのことを精神性が上がったとか、精神性が高いとか、悟るという言い方をする人もいます。それらのことを総称し一般化するかのように、引き寄せの法則関連の書籍で述べているのだと思います。これまでの、「我慢が当たり前の人生」から、「自由で楽な人生」を見出すことができる馴染みやすく書かれた書籍だと思います。この傾向は、自分自身に向き合うことをことを示唆し、時代が物質主義から精神主義に変化してきた現れであると間違いなく言えます。
人は自分だけの善悪のスケールを持っていて自動思考で瞬時に善悪をラベリングしていきます。長く生きれば生きるほど物事をフラットに紐解くことが難しくなりますが、その傾向があるということに気づくだけでも十分、観点の転換は起きてきます。
自分の心や意識が外側の現実という目で見える世界に投影されているという概念は、多くの哲学者、心理学者、スピリチュアルリーダーによって提唱されてきました。潜在意識を使うことや思考や感情が現実化することを述べた本、霊的でスピリチュアルの観点、量子力学の観点、脳科学や生理学、心理学の観点など、どんな入り口にせよ、人間が向かっている先、行き着くところは全く同じだと言えます。
過去体験した忘れられず逃れられない苦しみや痛みは幻想とも言います。しかし五感で感じられる以上幻想とは言い難いわけです。そして理想を求めるようになり、そこにギャップが生まれ苦しみが積み重なります。社会経験が深くなると知恵を持っているため知恵で隠そうとしますが、ところどころで苦しみを感じるため排除したい気持ちが芽生えます。そしてもがき始め、探し求める”何か”が手応えを感じるまで、自分を責めながら、平凡な日々でいい、普通の幸せでいい、とどこかに向かって懇願します。あとどれだけ我慢すればいいのだろう? あとどれだけ学べば報われるのだろう? と”大切なこと”を探し『境地』を目指します。
境地さえ見つかれば・・・
欠点さえなくなれば、強みさえ見つかれば、弱みが強みになりさえすれば、理解してくれる人さえいたら、お金さえあれば、パートナーさえいれば、仲間がいれさえれば、仕事に没頭してさえいれば、これを学び切りさえすれば、これを持ってさえいれば、これをしていれば・・・と何かを持つことを目指して郷里のような境地を目指して・・・
ずっとそこに残っている耐え難き経験を、そのまま持ち続けてもいいし、しかしそれは自愛で変えることもできますから手放してもいい。どちらを選択しても一つの人生には変わりありませんし「正解」ですが、私は表面的な思いやりや条件付きの見返りを求めた人間や、心を着飾り外見をええかっこしいの嘘でできた人らしさなど要らないと思っていたので、どうせ死に向かって生きているのだから、半世紀以上持っていた「これが自分」と思い込んでいたアイデンティティなど捨てるつもりで自分自身と毎日向き合い続けました。ワーク、ジャーナル、セッションなんでもしました。
そしてこのままの自分でいいのね、ここに居ていいのね、と居場所を見つけるまで8年、思い残すことが無いほど走り切った、と自分に丁寧に向き合ったことを褒め称えることができるようになったのです。自己成長を求める日々に終わりはありません。セルフエンパワーメントプログラムを自身で作り上げることができたのは、興味の大半が自己成長に向いていたからです。
私は母親嫌いを公言していますが、好きになる必要はありません。嫌いな食べ物を好きにならなければ人生がうまく行かないなんてことがないように、人を嫌うことも単なる相性に過ぎませんから、嫌いでいいのです。許すこともしないでいいことを許すのです。
しかしよく聞くスピリチュアルの学びでは、母親(両親やご先祖、他者)を嫌うことは現世に於いては経済的な豊かさや対人関係、生きづらさに影響を及ぼすので、仲良くなるようにと改善することを勧められていますが、そんな因果関係は全く無関係だと言えるまでずっと知りたかった真理のヒミツを思い出すことができました。自身の過去を振り返って自愛や概念の研究を行ったこと、過去の記憶というのは貴重な財産でもあり、思いと起こることは別物と捉えることができるようにもなりました。
ですから嫌いなものは嫌いと言っていい、意見も価値観も違っていい、嫌なことは相手が誰であっても断ってもいいのだという安心感は自分を尊重し、意欲や能力を引き出します。そして周りも安心させます。他人は敵だと疑ってかかって、人の目を気にして怯えてるから他人の意見に振り回されストレスが溜まり人生観が歪んでいきましたが、過去の記憶と自分を否定しなければいいのです。友達が何人いるか、お金をどれだけ持ってるか、何ができるか、何を持っているか、どこへいけるか、成功とはこういうこと、幸せとはこういうこと、という誰かの定義とは無縁になり無敵でフリーな生活があります。制限・制約に囚われない真の自由と温かな人生を得ていくことは、原理原則と言われる◯◯の法則をやることではなく、頭の中で自分を肯定するだけでいいのです。
嫌いは嫌いと言い切っても大丈夫なんだと安全に安心できる世界を。
毒親に心を支配されて、ひとり親家庭で貧乏で発達障害でどうやって子育てしたらいいかわからないと悩み、HSS型HSPでとにかく過敏で、深い思考ができるのに周りから理解されず生きづらさを感じて、スピリチュアルを学べば人生変わると思い投資してきたけど変わらない、我慢するしかない、、、あとどれだけ頑張ればいいの?とサイレントに訴えるそんな大人たちがたくさんいることは知っているのに知らん顔はできません。寄り添いのメッセージを届けたいと思います。大丈夫。究極変わらないでも変わってしまう自分を大切にする行為は、人生で一番大切なことです。
息子は毎日親孝行をしてくれる親想いの優しい大人に成長しました。あんなに自己否定をしていた私が育てたのにも関わらずですよ? 時に厳しく私を諭してくれ、こんなに愛情深く接してくれるとは、23年前、夜の踏切を前にして、想像することはできませんでした。お互いに支え合う関係を築くことができている今、愚かだと自身を罵り否定することしかできなかった私は、もうどこにもいません。
私の生い立ちと体験記が、私の経験が同じように苦しんでいる人たちに少しでも希望を与えることができればいい。誰かの心に届きますように。誰もが急がなくても死に向かって生きているのですからあなたのまま生きてほしい。少しでも助けになることを願っています。
どれほど困難な状況にあっても、自分を大切にし、自分自身を信じることができれば、必ず出口が見えてきます。体験記はこれからもシェアしていきますので自身のことに置き換えて自己理解と自己承認を深めていってほしいと思います。
そして「探究の終わり〜スピリチュアルからノンデュアリティへの旅」へ続いていきます。
ここに19年前、書店で見つけた
松下幸之助さんの著書の中の『道』を記します。
この一冊でどれほど救われたか、松下幸之助さんへ感謝申し上げます。
自分には自分に与えられた道がある。天与の尊い道がある。どんな道かは知らないが、他の人には歩めない。自分だけしか歩めない、二度と歩めぬかけがえのないこの道。広いときもある。せまいときもある。。のぼりもあればくだりもある。坦々としたときもあれば、かきわけかきわけ汗するときもある。
この道が果たしてよいのか悪いのか、思案にあまるときもあろう。なぐさめを求めたくなるときもあろう。しかし、所詮はこの道しかないのではないか。
あきらめろと言うのではない。いま立っているこの道、いま歩んでいるこの道、ともかくもこの道を休まず歩むことである。自分だけしか歩めない大事な道ではないか。自分だけに与えられているかけがえのないこの道ではないか。
他人の道に心をうばわれ、思案にくれて立ちすくんでいても、道はすこしもひらけない。
道をひらくためには、まず歩まねばならぬ。心を定め、懸命に歩まねばならぬ。
それがたとえ遠い道のように思えても、休まず歩む姿からは必ず新たな道がひらけてくる。深い喜びも生まれてくる。
後書き
この記事をクリックしていただいたあなた様に、心からの感謝を申し上げます。ここまでお読みいただき、私の旅にお付き合いいただいたことに、深い感謝の念を抱いています。
私の人生は、多くの苦難と試練に満ちていました。機能不全の家庭で育ち、母親の厳しい躾や宗教の強制に苦しみ、社会に適応することが難しい時期もありました。しかし、こうした困難な経験こそが、私を成長させ、深い内省と自己理解を促しました。母親との確執、社会での孤立、そして一人で子育てをするシングルマザーとしての苦労など、多くの試練が私を取り巻いていましたが、それでも私は前に進むことを選びました。
2016年に「自愛」という言葉に出会ったことは、私の人生にとって大きな転機となりました。自分を大切にすることの意味を知り、それを実践することで、自己肯定感を取り戻し、意識の変容を経験しました。自愛とは、自己否定を乗り越え、自分自身を受け入れ、労わることです。これは決して自己中心的な行動ではなく、むしろ他者と真に向き合い、共感し、支えるための基盤です。
この旅を通じて私は、過去の苦しみや困難を糧に、古い固定観念や概念を手放し、心を解放し、新たな視点を得ることができました。そして、この経験を他の人々と共有し、同じような苦しみを抱える人々の支えとなることが、私の人生であると感じています。
自己理解の深化
困難な経験を通じて、自分自身を深く理解することができました。幼少期からの機能不全家庭での経験や、母親の厳しいしつけ、離婚後のシングルマザーとしての生活など、これらの体験は自己理解を深める重要なきっかけとなりました。特に心理学やスピリチュアルな学びを通じて、自分がHSS型HSPであることを知り、自己肯定感と自己重要感戻せたことが大きな進歩です。レジリエンスの向上
過去の困難な経験は、逆境に対する強さと適応力を養いました。特に息子の不登校や仕事の変遷を乗り越える中で、困難な状況に対処するスキルや忍耐力が培われました。このレジリエンス(回復力)は、今後の人生においても大きな強みとなるでしょう。他者への共感と支援の能力
自分自身が困難な経験を乗り越えたことで、他者の苦しみや困難に対してより深い共感を持つことができるようになりました。スピリチュアルカウンセラーとしての活動や結婚相談所の設立を通じて、他者をサポートし、助ける能力が向上しました。特に、自分の経験をシェアすることで、同じような状況にいる人々に勇気と希望を与えることができるようになりました。自己愛と自分軸の確立
「自愛」という概念を学び、それを実践することで、自己愛と自分軸を確立することができました。これにより、他人の評価に依存せず、自分自身を大切にし、自分の人生を主体的に生きる力が身につきました。この自己愛と自分軸は、人生のあらゆる場面での意思決定や行動において、安定した基盤となります。新たなキャリアの発展
過去の経験を活かして、新たなキャリアを築くことができました。スピリチュアルカウンセラー養成講座の設立や、親育ての育容教室など、これまでの経験と学びを活かした新たな挑戦をしています。また、評価と指摘を得意とするスキルを職業にすることを検討していることも、過去の経験がもたらした新たな視点と機会の一例です。内なる平和と幸福感の向上
過去の困難な経験を乗り越え、自分自身と向き合うことで、内なる平和と幸福感が向上しました。潜在意識や引き寄せの法則は今では最強の自己回復プログラムツールだったと感謝しています。毎瞬自分を大切にすることで、人生に希望を見出し、精神性を高めることができました。これは、全くお金のかからない無双の育成ツールです。日常生活や人間関係においても、より充実感と満足感をもたらしています。
もしも全ての人が自愛を実践し、自分を大切にすることを学んだなら、この世界はもっと優しく、平和な場所になることでしょう。私たちは皆、過去の経験や苦しみを乗り越え、新しい人生を築く力を持っています。そして、その力を引き出す鍵は、自分を大切にすることにあります。
この記事が、あなたの心に少しでも響き、自愛の大切さを理解し、実践するきっかけとなれば幸いです。私の旅はまだ続いていますが、これからも自愛を大切にし、自分の経験を他の人々と共有しながら、より素敵な人生を生きていきたいと思っています。
最後に、私を支えてくださった全ての方々、そしてこの記事を通じて私の話を聞いてくださった全ての読者の皆様に、心からの感謝を捧げます。私たちは皆、繋がっており、お互いに支え合うことができる存在です。この繋がりを大切にし、共に成長し、幸せを見つけていきましょう。
心からの感謝を込めて。