親しき中にも「離見」あり?!
先日、靖国神社に参拝してきた。
本殿の手前、参道を少し外れたところに、
写真にある能楽堂が佇んでいる。
風情のある建築に、しばし見とれていた。
能と言えば、観阿弥・世阿弥である。
世阿弥と言えば、『風姿花伝』である。
『風姿花伝』と言えば、
「秘すれば花」であり、
「見、離見、離見の見」である。
などとしたり顔で言うと、
いかにもしっかりと読み込んでいるように
聞こえるかもしれない。
残念ながら、実際は未だ通読したことがなく、
人づてに理解した内容の方がむしろ多い程だ。
とても短い文章のはずなので、
折角だからこれを機に読んでみるつもりだ。
Amazonでは、Kindle Unlimitedのライブラリに
無料で読めるものがある。
更に、気になるものが2つほど。
1つは、夏川賀央さんが現代語訳された、
「いつか読んでみたかった日本の名著」
シリーズとして出ているもの。
そしてもう一つは、NHKのテキスト。
最近色々な名著がこのシリーズで出されて、
再評価されるケースが多いように感じている
「100分de名著」からの1冊だ。
まずはKindleで読んでみて、
他と読み比べたくなるかどうか
考えてみようと思っている。
「見、離見、離見の見」というのは、
過去に何度かこのnoteでも取り上げた
ことがある。
要は、英語で言う
「第一人称、第二人称、第三人称」
の違いだと考えると分かりやすい。
即ち、
「見」=自分からどう見えるか
「離見」=相手からどう見えるか
「離見の見」=第三者からどう見えるか
というニュアンスである。
そして、この視点の違いを常に意識
することで、良いパフォーマンスを
発揮することが出来る、そのような
教えであると理解している。
殊に、「見」(「我見」とも言う)に
とらわれすぎることなく、「離見」や
「離見の見」を常に忘れずに意識する
ことが大切なのだ。
そうは言いつつ、実際にそれができて
いるかと言えば、口ごもってしまう
自分がいるのも事実。
実のところ、ビジネスの現場では、
それなりに適度な緊張の下で、
比較的「離見」「離見の見」を意識
出来ていると自分では評価している。
むしろ問題は、家族と会話をしている折、
つい油断して「我見」に偏った発言を
してしまい、ひんしゅくを買うことが
よくあるところにある。
家族だから甘えてもいいとかいう
問題ではなく、やはり常に「離見」、
「離見の見」で自分を見ることが
出来てさえいれば、余計な諍いを
事前に防ぐことが出来て、すべて
丸く収まるはずなのだ。
「親しき中にも礼儀あり」とは
よく言ったものである。
「親しき中にも離見」
「親しき中にも離見の見」
と読み替えて、自らの備忘としておく
こととしよう。