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本質を捉えるトレーニング

昨日は、「マーケティング」を
短歌と同じ31文字で表現したら
どうなるか?
ということで、
10個ほどトライしてみた。

俳句や短歌というのは、
字数に制限がある。
字余りや字足らずな場合もあるので、
必ずピッタリとは言わないが、
基本的には17文字、あるいは31文字
で何らかの表現を行うことになる。

この、制限された文字数の中で
何かを表現するというのは、
とてもクリエイティブな作業だ。

自分が伝えたいことを、
少ない文字数制限の下で、
いかに伝えきるか。

余計なものは徹底的に省ききる
そんな意識がなければ、とても
文字数が収まりきらない。

俳句や短歌といった日本文化の誇る
短文の表現形式
に思いを致すとき、
私はいつもこの本のことを思い出す。

読んだのは、中学生の頃だから、
かれこれ35年以上前のこと。
確か、高校受験対策で手に取った本
である。

特に俳句のことをテーマに、
それがいかに研ぎ澄まされた文学か、
余計なものを省ききっているか

ついて述べていた。

そして、省きつつも、豊かな意味を
伝えるために、「切れ字」という
余韻を残す技を生み出した、
そんな内容だったと記憶している。

「切れ字」というのは、俳句でよく
用いられる「~や」「~かな」などの
言葉だ。

松尾芭蕉の句を例にとれば、

古池 蛙飛び込む 水の音
夏草 兵どもが 夢の跡
閑さ 岩にしみ入る 蝉の声

これらの「や」が切れ字となる。

野ざらしを 心に風の しむ身哉(かな)

「かな」の方は、有名な句が少なかった
ので、一つだけ紹介しておく。

「や」「かな」、いずれも、
この言葉の後に「間(ま)」が生まれる。
「古池や」と言われたら、「蛙」の前の
若干の間に、人はそれぞれの「古池」を
心の中に描いていく
だろう。
「夏草や」と言われたら、暑い夏の日に
勢いよく生える草を想像する
だろう。
「閑さや」と言われたら、シーンとした
場面を、思い浮かべる
に違いない。

その「間」というか「余韻」の中に、
作者が伝えようとした情景を感じる
ことができる

それこそが俳句の真骨頂だという、
確かそんな主張であった。

もはや手元に本もなく、
今思い付きでこれを書き始めたので
すぐに確認もできず、細かい部分の
記憶違いなどはご容赦願いたい。

伝えたいことを、目一杯の言葉で
着飾って表現するのではない。
むしろ削って、省いて、少なくして、
間を作ってやることで生まれる余韻を
通じて表現
していく。

この、削る、省く、少なくする、という
作業は、昨日の繰り返しにはなるが、
ものごとの「本質」を鋭く捉えることに
つながる。

本質的な部分を削ってしまったら、
ただの駄文が出来上がるに過ぎない。

本質を捉える力を付けるトレーニング
として、俳句や短歌を嗜むというのは、
なかなか優れた方策だろう。


己に磨きをかけるための投資に回させていただき、よりよい記事を創作し続けるべく精進致します。